遙かゆかりのスポット巡り

特別編「屋島の合戦」

源平合戦図扇面(香川県高松市

 

屋島山上水族館の壁面にディスプレイされていた源平合戦図扇面をご紹介します。
江戸時代に描かれた作者不詳の扇面で、現物は高松市歴史資料館に屏風の形で収蔵されています。
有名なエピソードが数多く描かれているので、『遙か3』の世界をつかむのにもお役立てください。
 
倶利伽羅峠の戦い木曾義仲に大敗を喫した平惟盛は、妻子を残して一門とともに京を離れました。
平重盛の一子で、桜梅の将と称えられた優美な公達は、戦いの才には恵まれず、富士川の合戦倶利伽羅峠の戦いと敗北を続けます。
史実では都落ちの後、一ノ谷の合戦前後に戦線を離脱、熊野で入水自殺をしたと言われています。
不憫な……。

同じ源氏の一族である木曾義仲と、源頼朝の名代である源九郎義経が、京を舞台に戦った宇治川の合戦
これは、有名な先陣争いの風景を描いていると思われます。
『遙か3』のゲームスタート時が、この合戦の最中ですね。


京を追われた木曾義仲は、北陸への逃亡を図ります。
後白河法皇を連行しようとするなど、兵や民の支持を失う行動が目立ったため、落ちのびる際に従った供は数少なかったですが、義仲の故郷、信濃から付き従っていた巴御前はそれでもそばを離れなかったと言われています。

『遙か3』冒頭で九郎が「木曾の女兵」と言っているのは、彼女や、同じく義仲に従っていた葵御前を念頭に置いているのでしょう。


一ノ谷の合戦の際、鵯越を行うため山中を進む源九郎義経を案内した、地元の猟師の青年が熊王です。
この青年を気に入った義経鷲尾三郎義久という名を与え、郎党に加えました。
以後、義経に常に従い、奥州平泉で藤原泰衡に攻められた際にも、主を守って運命を共にしたと言われています。


梶原景時の嫡男、景季一ノ谷の合戦の際、箙に梅の枝を挿して奮戦し、雅を解す坂東武者として平家からも称賛されました。
敵陣深く入り込んだ息子を救出するため、わが身を顧みず敵陣に駆け戻った景時の行動が、いわゆる「梶原の二度駆け」です。
ゲームとはかなり異なる出来事ですね。


平清盛の末弟で、歌人としても知られる平忠度はゲームにも登場しますね。
一ノ谷の合戦の際、源氏の武将、岡部忠澄と組み合い、ついには討ち取られました。
箙に結ばれていた歌から、自分が名高い平忠度を討ってしまったと知った忠澄は、後に埼玉県深谷の清心寺に供養塔を建てています。


一ノ谷の合戦の際、数多くの平家の武将が命を落とした中で、生け捕りとなったのが平重衡でした。
このエピソードについては、平重衡とらわれの松の項をご覧ください。


一ノ谷の合戦の中で最も有名なのが、この熊谷直実平敦盛のエピソードでしょう。
これについては須磨寺敦盛塚の項で詳しく取り上げますので、ご参照ください。

壇ノ浦の合戦の際の、先陣争いを指すと思われます。
ただし、実際の口論は梶原景時義経の間で行われました。
総大将が先陣などと聞いたことがないという景時と、自ら先陣を務めてきた義経が互いに譲らず、それぞれの肩を持つ郎党たちが加勢して、一触即発の状態になった……というエピソード。
このときの恨みが、後の梶原の讒言の動機となったと言われています。

う~ん、しかし、二人が騎馬というのが謎だなあ。
この口論についてご存じの方がいらしたら、ぜひ教えてください~~!!
佐藤継信の墓にもあと1点、扇面を掲載しているので、よろしければご参照ください。