<前のページ  
 

氷塊の楼閣 ( 2 / 3 )

 



「犬……」

目の前で今にも涙をこぼしそうな九郎を、泰衡は呆れて見つめていた。

居候の身で犬を飼うなどできないが、見捨てることもできない。

そう言ってうつむいているのは、冴え渡る剣の腕で平泉の郎党を圧倒した若武者である。

御館の命で呼びにきてみれば、捨てられたみすぼらしい子犬を前にどうにも動けなくなっている。

ふうっと大きくため息をついて、泰衡は犬をつまみ上げた。

「泰衡!」

叫ぶ九郎が子犬に自らの姿を重ねているのは明らかだ。

この犬が見捨てられるということは、同じことが自分にも起こるということ。

そんな恐れを抱いているのだろうか。

馬鹿な……。




(そんなことは決してない)

思わず口に出しそうになって、泰衡は驚いた。

(そんなことはない…? なぜだ? この男が平泉の役に立たなくなれば、明日にでも起こり得ることではないか)

そう思う心の反対側で、もうひとつの声がつぶやく。

(いや、この男は必ず何かの役に立つ。源氏の御曹司としてでなくとも、平泉に居場所を見つけることはできる)

ふたつの声を聞きながら、泰衡はやせこけた子犬を懐に抱えた。

「こんなやせ犬でもよく吠えるな。番犬くらいにはなるだろう。これは俺が引き取る」




彼が、九郎への態度を決めたのはこの日だった。



* * *



「僕は、佐殿と合流することが、必ずしも九郎にとってよいとは思わないんですよ」

穏やかな微笑みを浮かべながら、少し色の薄い髪を手で梳いて、法師は言った。

「……同感だな」

遠くを見つめながら、泰衡が答える。

その視線の先では九郎が、馬上で藤原の郎党の一人と打ち合っていた。もちろん木刀での模擬試合だが、敏捷さと隙のない剣技で、あっという間に相手を馬からたたき落としてしまう。

「次!」

弾む声が草原に響く。生きる喜びにあふれた若駒。




「あれは危険すぎる。天性の将を側に置く器の大きさが、佐殿に果たしてあるだろうか」

「泰衡殿は九郎の素質を、もう見抜かれているのですね」

少しうれしそうな響きが声にこもる。

「俺に欠けている物を九郎は持っている。それくらいはわかるさ」

「しかし、あなたにあって九郎にないものもまた多いのです」

静かな長いため息。

「猜疑心と人間的魅力を併せ持つことはできまい。それはあなたの領分だ」

「じゃあ僕には魅力がないんですか」

「お互い、望んでも詮無いことだ」

くすくすと笑い声。

「ひどいな」




「いつか……」

沈黙の後、不意に言葉を発した弁慶に、泰衡はやっと瞳を向けた。

「いつか、あなたのお力を借りることになるかもしれません」

法師は、遠く聳える北上の山を透かし見るような目をしていた。

あえて返事はせず、泰衡も同じ方角を眺める。

その日は来る。おそらく確実に。

佐殿があの才能と魅力を畏怖する日が。



* * *



(よくもまあここまで変わらないものだ)

柳ノ御所で数年ぶりに再会した九郎を見て、泰衡は思った。

源氏の英雄が、一転鎌倉の敵に――めまぐるしい境遇の変化をくぐり抜け、命からがらこの平泉にたどりついたというのに、あのまっすぐな眼差しは少年時代のままだった。

(この瞳、鎌倉殿にはこの上なく危険に映ったことだろう……)

泰衡の感慨をよそに、ひどく思い詰めた顔をした九郎が口を開いた。

「泰衡殿にはどんなに感謝の言葉を尽くしても足りません。鎌倉勢に追われて行き場を失ったわれらを、銀殿を差し向けてお救いになり、この平泉にお招きくださったのですから。これこのとおり、心より御礼を申し上げます」

深々と頭を下げる。

「感謝なら御館にされるがよい。私は指示に従っただけだ」

はねつけるような言葉に思わず顔を上げた九郎は、次の瞬間破顔した。

「ああ……泰衡殿には本当にお変わりなく。なあ、弁慶」

「そうですね。僕の嘆願を御館にお取り次ぎくださったのは泰衡殿ですから、貴方が僕らの命の恩人であることに変わりはありませんよ」

今は軍師となった元法師が、蠱惑的な笑みを浮かべながら言った。




自分のつっけんどんな返答を聞いて、妙に納得する九郎が気に障ったものの、泰衡は話を続けた。

「高館はあなたたちが発ったときのままだ。以前のように使われるがよかろう。一行は全部で九人と聞いたが」

「……あ……ええ。今は九人……」

口ごもる九郎の後を、軍師が爽やかに継いだ。

「もう一人、あとで加わる予定なんです。女性が二人いるので、彼女たちが心地よいよう部屋割りをするべきでしょうね。高館なら十分な広さがありますから、不自由は感じないでしょう」

泰衡はこの男がにっこりと微笑むたび、なぜか居心地の悪さを感じる。昔から相性がいいわけではないが、平家との闘いを経てますます食えない人物になったようだ。

「当分は銀を高館に出向かせる。不自由があれば、何でも言いつけられよ。婢や奴婢も必要に応じて手配させていただく」

「かたじけない!」

またも大真面目に頭を下げる九郎を見て、泰衡は思わず笑みを浮かべた。が、その自分を弁慶が見つめていることに気づき、咄嗟に眉根を寄せて立ち上がる。

「御曹司、あなたの価値は昔も今も変わらぬ。平泉が戦う相手が、平家から源氏に変わっただけだ」

振り向かずに、そのまま渡殿の奥に消えていった。




「……つまり、昔同様自由に過ごせ……ということだと思いますよ」

弁慶が微笑みながら言うと、九郎は困惑した顔で泰衡の消えた方角を眺めた。

「俺は……泰衡殿に会う度に自分が嫌われていることを思い知らされる。御館がいるからこそ、あの方も俺を助けてくださるのだろうな」

「おや……」

「何だ?」

「いいえ。君がそう思うなら別に……。僕はそれほど親切ではありませんから」

「何のことだ?」

「気にしないでください」と言いながら、弁慶は先に立って歩き出した。わけがわからぬまま小走りに追う九郎の頭は、すでに御館へ伝えるべき感謝の言葉でいっぱいだった。





 
<前のページ