氷塊の楼閣 ( 1 / 3 )
「やはり俺の思った通りではないか」
読み終わった書状をぐしゃりと握りつぶしながら、泰衡は苦々しげにつぶやいた。
華々しく伝えられる九郎の戦果。それが鎌倉にいる頼朝の胸中に深い闇を作り出していることは、容易に想像できた。
まだ見ぬ兄を慕い、再会の後はひたむきに闘い続けてきた九郎と違い、泰衡は兄弟の権力争いを自ら味わっている。長男である国衡が、母の身分が低いという理由で退けられ、次男の身で惣領となって以降、兄から注がれる視線は愛情などではない。
父、秀衡亡き後に平泉を大きく割きかねない危うさを、泰衡は常に感じていた。
そこに、壇ノ浦での義経一行追撃の報せである。
「銀」
張りのある声で、次の間に控える郎党を呼ぶ。
「はい」と応え、長身の青年が姿を現した。
銀はこの男の真の名ではない。
先頃、記憶を失ってさまよっていたところを保護し、新しい名を与え、郎党として抱えたのだ。たいして期待などしていなかったが、武芸にすぐれ、知恵もあり、何よりも忠誠心に篤い。今では、古くからの側近よりも泰衡の信を得ていた。
「九郎が鎌倉殿に追われ、西国を逃げ回っている様子。可能な場所まですぐに迎えに行け」
「仰せのままに」
かねてから首尾を聞かされていた銀は、問いひとつ発することなく下がった。
まもなく西をさして駆け出す蹄の音が聞こえてきた。
「いよいよか」
低いつぶやきが唇から洩れる。
鎌倉との決戦は、九郎が平泉を離れた日から常に泰衡の意識にあった。
「いつか鎌倉殿が九郎を疎む日が来る。そのときは、この平泉が九郎を総大将とし、鎌倉と一戦を交えるのだ」
それは御館(みたち)、秀衡の宿願であり、泰衡の心からの思いでもあった。
* * *
まだ十代のころ、京から身ひとつで平泉にたどり着いた九郎は、ともすればただの阿呆に見えた。元気ばかりがよく、暇さえあれば馬で、徒歩(かち)で、平泉の野を駆け回っている。ともに下ってきた怜悧な法師ですら、時にもてあますほど熱く、無謀に何にでも頭を突っ込んでいった。
「九郎、おまえはいったいこの平泉で何をする気だ」
ある日、厩の前で九郎とばったり会った泰衡は、腹蔵ない疑問をぶつけた。
「俺には、ただ御館の好意に縋り、我が儘放題をしている馬鹿者にしか見えぬが」
「泰衡殿」
太陽のように明るい顔に、一瞬深い翳りが宿った。泰衡がついぞ見たことのない、思慮深い表情。が、伏せた目を無理矢理上げると、すぐまた笑顔に戻った。
「そうだな。俺は鞍馬にいる頃から、京に下りては弁慶と徒党を組んで悪さをしていた馬鹿者だ。泰衡殿が嘆かれるのも無理はない」
「俺は嘆いてなどいない」
九郎が泣いているような気がして、泰衡は咄嗟に応えた。
「無駄飯を食らうのに飽いたなら、郎党たちとともに弓馬や剣の稽古をしてはどうかと言っている。されば火急の際に、御館のご恩に報いることもできよう」
「それは……できん……」
辛そうな表情で、九郎は横を向いた。
泰衡が無言のまま佇んでいると、切れ切れに、苦しそうに言葉が続く。
「俺がそのようなことをすれば、平泉は俺を立てて平家に楯突こうとしていると疑われるだろう。御館は俺を引き取ることで、すでに十分危険を冒しているのだ。この上、あの方に迷惑をかけることはできない」
「だから、馬鹿者のふりを続けると?」
一瞬目を見張った九郎は、しかしそのまま背を向けた。
「そのような真似をせずとも、おまえは十分馬鹿だ。御館を、平泉を甘く見ないでもらいたい」
九郎の背に鋭い声が浴びせられる。振り向くと、泰衡が腕を組んで冷笑を浮かべていた。
「泰衡殿」
「おまえは平家に挙兵するための口実。それ以外の価値などない。御曹司、いつかこの平泉が京に攻め上る時、あなたは我らの総大将となるのだ」
「何……?」
泰衡は、嘲るように顎を上げると続けた。
「御館が同情から源氏の頭殿(こうのと)の子を引き取ったとでも思うのか? 東国の侍どもを束ね、平家を打倒するには旗頭が必要なのだ。伊豆の佐(すけ)殿でもおまえでもどちらでもいい。すべては平泉のため。思い上がるのも大概にするがいい」
「……」
怒りとも驚きとも判別し難い強い光を瞳に宿して、九郎はしばらく沈黙した。泰衡は軽蔑も露にそれを見つめる。
不意に、大きな瞳が閉じられた。一瞬の自嘲の笑みの後、太陽がまたその表情に宿る。
「御館が俺に価値を認めてくださっているのなら何よりだ。俺は俺の価値などわからぬし、平泉の役に立てるとも思えぬが」
「おまえはおまえであることが『価値』なのだ」
「そうか……」
聡明な表情が、明るい言葉の裏の複雑な思索を物語る。
「では泰衡殿、ご好意に甘えて、明日からでも鍛錬に加わらせていただこう。俺が師から学んだ剣技、どこまで実戦で役立つか知りたいのだ」
「俺の郎党は気が荒い。打ち据えられても知らぬぞ」
「望むところだ!」
あまりにまっすぐな答えに、さすがの泰衡も笑みをこぼした。
それをきょとんと見つめると、満面の笑顔で九郎が言い放つ。
「なんだ、泰衡殿も普通に笑えるのだな。そのほうがよほどいい」
「余計なお世話だ」
瞬時に眉間に皺を寄せた泰衡は、さっと身を翻して館へ向かった。
しかし、九郎から見えないその顔には、微笑が刻まれていた。
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