手習い草紙 ( 1 / 2 )
鷹通さんと初めて会ったのは、京に来てしばらくたってからだった。
土御門殿のあかねちゃんの部屋に顔を出した僕を見て、にっこり微笑んでくれたんだ。
「ああ、あなたが詩紋殿ですね」
穏やかで優しい声だった。
多分、友雅さんから先に話を聞いていたせいだと思う。
でも、僕の髪や目の色を見ても驚かずに、そんな風に微笑んでくれる人は初めてだったから、心がほわっと温かくなる気がした。
「は、はじめまして」
「私は藤原鷹通と申します。同じ八葉として、どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる鷹通さんの向こうで、友雅さんが扇子に隠れて笑いをこらえていた。
「鷹通は何事にも大真面目でね。こういう人間なのだと思ってつきあってくれまいか」
「友雅殿。あなたにはもう少し真面目になっていただかないと」
二人のこういうやりとりはよくあるみたいで、藤姫もあかねちゃんも顔を見合わせて笑っていた。
ひととおり友雅さんに小言を言った後、鷹通さんは僕に向き直る。
「それで、詩紋殿は不自由されていることなどありませんか? 私にできることがあれば、何でもお手伝いいたしますが」
「あ〜……でも……」
「どうぞご遠慮なく」
眼鏡の奥の目があんまり優しかったので、僕はつい、今まで言えなかったことを口に出してしまった。
「僕……僕、字が読めるようになりたいんです。もちろん、書けるようにも…!」
急に鷹通さんが沈黙した。
「?」
「……その……詩紋殿は、文字を習われたことがないのですか?」
すごくためらいがちに言葉を紡ぐ。
「え……?」
「やだ、鷹通さん、もちろん習ったことはありますよ!」
あかねちゃんが慌てて口を挟んだ。
藤姫ちゃんがほっと小さく溜息をついたのを見ると、どうも本当に文字が読めないと思われたみたい。
「そう、ですよね。ではいったい……」
「詩紋、君が習った文字を鷹通に書いてみせるといい。そのほうが話が早いだろう」
友雅さんの提案で、早速文机と硯と墨が運び込まれることになった。
書道はそんなに得意じゃないけど、あかねちゃんに助けられながら何とかいくつかの文を書き上げる。
「……なるほど。このような書にしか親しまれていないのなら、私たちの書く文をお読みになるのは難しいですね」
僕の書いた文字を真剣に吟味しながら、鷹通さんは言った。
「ただ、詩紋殿は丁寧な文字を書かれますから、あなたの手蹟(て)を私たちが理解することはできますよ」
「て?」
「『書いたもの』という意味です」
なるほど、と僕はうなずいた。
僕らが習っている書体には、京の人も漢文を通じて触れているから、読むことはできるらしい。
となると、習うべきなのは読み方のほう。
「詩紋くんが習うんなら、私も一緒に習おうかな」
あかねちゃんが明るくそう言った。
「天真はどうかな? あれにも声を掛けたほうがいいだろう」
「友雅さん、『あれ』って……」
ツッコミながらも、天真先輩が果たしておとなしく書を習うだろうか? と、僕は疑問に思っていた。
その時間があったら、頼久さんと剣の稽古をするんじゃないかな。
鷹通さんが、少し困ったように微笑む。
「書でしたら、友雅殿のほうがよほど上手でいらっしゃいますが」
「『教える』という行為に向いているのは鷹通のほうだよ。私はこらえ性がないからね」
「あ〜、私なんてすぐに見捨てられちゃいそう」
あかねちゃんが溜息をつきながら言うと、友雅さんはすぐにその手を取って
「大丈夫だよ、神子殿。君は未知なる輝きに溢れていて、私に退屈など感じさせないのだから」
と耳元に囁いた。
相変わらずこういうことは素早いなあ。
「それでは」
真っ赤になったあかねちゃんと友雅さんの間にやんわりと入りながら、鷹通さんが僕に微笑みかけた。
「明日からでも、詩紋殿と神子殿の手習いを始めましょう。天真殿もご興味がおありなら加わってくださいとお伝え願えますか?」
「はい! わかりました」
「藤姫さま、必要な道具を揃えていただけますか」
鷹通さんの問いかけに、藤姫ちゃんがにっこりと笑った。
「はい! 鷹通殿の分もご用意させていただきますので、邸には手ぶらでお越しくださいませ」
「しかし、私のような者がこちらでお使いの高級な道具を使わせていただくのは……」
「鷹通、こういうときは素直に感謝するものだよ」
友雅さんにたしなめられて、鷹通さんは少し頬を染めると「それでは…」と、うなずいた。
まるで歳の離れた兄弟みたいな天地白虎。
僕もいつか、朱雀の対であるイノリくんと仲良くなれるんだろうか?
* * *
案の定、天真先輩は「授業」への参加をパスした(バイトの関係で、基本的な読み方はもうわかるんだって!)ので、僕とあかねちゃんが鷹通さんの生徒ということになった。
身に付けたいのは読み方だけど
「自分で書くことで、ただ眺めているよりもずっと早く覚えられますよ」
という鷹通さんの提案で、基本はお習字。
書いてもらったお手本を見ながら、筆の流れを再現していく。
書き方を体感するため、筆を持った手に鷹通さんが手を添えて、一緒に書いてくれることもあった。
これって後ろから覆いかぶさるみたいな姿勢になるから、たまたま覗きにきた天真先輩が怒り出したっけ。
「鷹通! お前、あかねに何やってるんだ!!」
「筆の運びをお教えしていたのですが」
「な! そ、そんなにくっつかなきゃ教えられねえのかよ」
「よろしければ天真殿にもお教えしますよ。どうぞこちらに」
「俺は別に」
「天真くん、せっかくだから教えてもらいなよ」
「神子殿もこう言ってくださるのですから」
しぶしぶ文机の前に座って、鷹通さんに添えられた手で書き始めると、思いのほか楽しかったらしい。
「おい鷹通、こっちの手本も書いてみていいか?」
「ええ。ではご一緒に」
結局、天真先輩はその日は最後まで一緒に「授業」を受けていった。
あの時点では天真先輩が一番文字を書けたから、鷹通さんも教え甲斐があったかもしれない。
その後も、天真先輩はときどき「授業」に顔を出した。
素直に「教えてください」って言えばいいのに、最初に断っちゃった手前、言いにくかったみたい。
あかねちゃんと「意地っ張りだよね」と笑ったっけ。
僕が日記を書く文字も、だんだんと「京風」に変わっていった。
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