誕生日 ( 1 / 2 )
これまでも、十分すぎるほど愛していると思っていた。
しかし、今腕の中にいるこの女性のことを、自分は本当に深く想い、心の底から愛していたのだと、あらためて譲は思った。
その愛情の大きさをこれ以上どう表せばいいのか、伝えればいいのかわからないまま、さらに強く彼女を抱き締めた。
* * *
「兄さん……」
「あ、あからさますぎるよね……」
目の前のテーブルに置かれた1通の電報を囲んで、譲と望美は赤くなって俯いてしまった。
日ごとに厳しさを増す暑さ。
外では蝉の声が響いていたが、冷房のきいた室内は奇妙なほど静かだった。
電報の横には小ぶりのバースデーケーキが置かれている。
『Happy Birthday 譲くん』
の文字が、チョコレートプレートの上に描かれていた。
譲が大学に入学し、この下宿で一人暮らしを始めて最初の誕生日。
「ある事情」で、実家でのお祝いが延びたため、望美はケーキやオードブルを手にはりきってやってきた。
どこに出掛けるよりも、部屋で一緒に過ごしたいという譲の希望は聞き入れたものの、薄化粧をして、一番気に入っている服を選び、レストランでのディナーでもおかしくないくらい頑張っておしゃれをした。
ドアを開けた瞬間、譲が目を見張ったのがうれしかった。
「すみません。レストランでも予約すればよかったかな…」
キッチンでいれたお茶を、テーブルに置きながら譲が言った。
「どうして? 私、譲くんに見てもらえればそれでいいんだよ。
あの……それとも、こんなことしないほうがよかった?」
やっぱり化粧なんか似合わないかな……と、不安になって望美がうなだれる。
その頬にそっと譲が触れた。
「……こんなにきれいな先輩を俺一人で独占するのが申し訳ない気がして……」
まぶしそうに見つめられて、望美の頬が真っ赤に染まる。
「そ、そんなこと……」
「そうですね。ほかの奴に見せるのなんかもったいない……」
譲の瞳が近づき、その日最初のキスを落とした。
* * *
「今ごろはみんな、海の上かなあ」
「今日は天気もいいし、快適なクルージングになるでしょうね」
「行きたかったなあ……」
有川家と春日家の両親は、将臣の招待で八丈島近海の小島にある海洋研究所に日帰りで遊びに行っていた。
将臣は、大学の研究活動の一環で、7月に入ってからずっとこの研究所に詰めている。
八丈島は羽田空港から飛行機で45分と意外なほど近いが、大学の試験期間中ということで、望美と譲は今回は置いてきぼりをくらった。
そして、有川家での譲の誕生祝いも、日曜日に持ち越されたのである。
「まあ、おかげで譲くんのお誕生日を独り占めできたけどね」
「俺の家の誕生日会って、ただの宴会ですからね。兄さんはうるさいし」
「あ〜、2年前に大ゲンカして譲くんに仲裁してもらったっけ」
「ははは……」
力なく譲が笑った。
つきあいだして以来、誕生パーティには常にロマンチックの欠片もなかったのである。
(それに比べれば今年は天国だな)
不意に、望美の携帯が鳴り出した。
「あ、ごめん」
同じタイミングでドアのチャイムも鳴る。
「? 何だろう?」
玄関の扉を開けると、「有川譲さんですね?」と、大きな電報を渡された。
「バースデイ電報……いったい誰が?」
封を開けながら部屋に戻ると、望美が素っ頓狂な声を上げていた。
「ええっ?! で、大丈夫なの?」
真剣な顔で携帯を握って話していたが、しばらくすると緊張が解け、
「わかった。譲くんにも伝えておくよ。ほんと、気をつけて帰ってきてね」
と、電話を切った。
「お母さん……ですか?」
ふうっと溜め息をつきながら望美が携帯をパチンと畳む。
「船のエンジントラブルで、八丈島に戻れなくなっちゃったんだって。
今日は研究所のほうにみんなで泊めてもらうって言ってた。
電話も、衛星通信とかで高いからってすぐ切られちゃった」
「海に出てからのトラブルじゃなくてよかったですね」
「うん、本当に。……それは?」
望美の視線が譲の抱えている電報に向けられた。
「バースデイ電報らしいんですが、送られる覚えが……」
開いて中を見た譲が、いきなり硬直した。
覗き込んだ望美も同じように凍った。
『Happy Birthday、譲!
親父たちは俺が足止めしておいてやるからな。
熱い夜を過ごせよ!!
弟思いの兄より』
「………………」
「………………」
長い沈黙のあと、テーブルの上にバサッと電報を置くと、譲が座り込んだ。
「兄さん……」
そのまま顔を覆ってしまう。
少し遅れて、望美もペタンと座り込んだ。
真っ赤な顔をして、小さな声でつぶやく。
「あ、あからさますぎるよね……」
再び長い沈黙。
しばらく後。
とにかくこの爆弾のような電報を視界から消そうと、譲はようやく顔を上げて手を伸ばす。が、まったく同じタイミングで望美が手を伸ばしていて、触れた手に電気でも通ったかのようにお互いバッと引っ込める。
また沈黙。
「お……」
言葉に詰まりながら譲が立ち上がる。
「俺、紅茶入れますね。せっかくのケーキがひからびちゃいます」
「あ……」
望美は譲の動きを目で追いながら思わずぽろっと言った。
「帰らなくていいならそんなにあわてて食べなくても……」
「!」
「!?」
「!!」
「!!!!?」
また、お互い真っ赤になって俯いてしまった。
何かを振り切るようにキッチンに入ってガスに火をつけると、譲はカチャカチャとティーカップを用意し始めた。
望美も慌ててキッチンに入り、皿やフォークを揃える。
背中を向けたまま譲が苦々しげに言った。
「先輩、兄さんの思惑なんて気にしないでください。
っていうか、まんまと乗せられるのなんて俺は……」
「……そ……そうだよね……」
憤然と同意すると思っていた望美の声が、意外に小さいのに譲は気づいた。
「せん……ぱい……?」
なぜか動きを止めてしまった後ろ姿を覗き込む。
触ればジュッと音がしそうなほど、望美の顔は真っ赤だった。
「せんぱ……」
「わ、私、ば、馬鹿みたい、あの、つい、その、とうとう……とか、き、気にしないで」
「先輩」
「もうやだ! 私一人で馬鹿みたいで!! もう、将臣君、帰ってきたら殴る!!」
振り上げた手を後ろからパシッとつかまえる。
そして、その手を前に戻しながら、望美を後ろから抱き締めた。
小さい肩が震えている。
「………いいん……ですか……」
遠慮がちに小さな声で、囁くように譲が言った。
一瞬、身体を強ばらせた後、望美が小さく、コクンとうなずく。
息を呑んで、もう一度強く抱き締める。
望美が決意した以上、何度も意思を確かめるのは失礼だと思った。
手を伸ばしてガス台の火を消すと、望美の肩を軽くつかむ。
そっとこちらを向かせて、俯いている頤に手を添え、ゆっくりと唇を重ねた。
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