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風声 ~魔法のベルが鳴るとき 忍人・譲編に寄せて~ ( 5 / 5 )

 



「あ~しんど!これ、ほんまに苦しいわ暑いわ……柊さんもお疲れ様」

ふう、と覆面を剥いだ夕霧が、空を見上げながら息をつく。
隣で、同じく覆面を外し、素顔を晒した柊が大きく伸びをした。
回廊の端に座り込んだまま、二人はしばし、白い雲が形を変えながらゆっくりと空を渡ってゆくのを黙って見つめていた。



「ふふっ……あの忍人さんが、うちらに『ありがとう』やって」
「ええ……聴こえましたよ」

二人はくすくす笑いながら、春の風を思いきり吸い込んだ。

覆面を取った彼等の目は充血し、顔は隠し切れない疲労で面やつれしている。けれど逆に、表情は、この春の景色にふさわしく晴れ晴れとしていた。
風の為すがままに髪を靡かせていた柊が、ふと、拗ねた口調で言った。

「…それにしても、今頃忍人は我が君の愛の囁きを聞いているでしょうに、私達の耳にそよぐのは春の風だけとは、報酬というにはいささか物足りない気もいたしますね」
「ふふ…素直やないなあ。今の私達には、忍人さんの『ありがとう』と、この爽やかな風が何よりやって言うたらええのに。コショウはもうこりごりや」
「コショウを武器にして果たして効果があるかは、不安が残るところでしたが、予想以上に効きましたね」
「あれほど何度も実験したんやから当たり前どすえ」

実は、二人は自分自身を実験台にしてスパイスやコショウが最高に効く方法を探していたのだ。

「ごもっともです。片目の私ですらもう遠慮しますよ」

言われて柊を見た夕霧が、一瞬きょとんとし、それから、ふっと目元を柔らげた。

「…はじめて見たなあ、柊さんの眼帯の下。ふふ、柊さん、片目よりも両目の方が、男前どすな」
「ああ…これは失礼。しかし、眼帯という覆面に更に覆面を重ねるという無粋な事を私の繊細な心が許さなかったのです。嘘に嘘を重ねる事など、愚の骨頂だとあなたもお思いになるでしょう?しばしお待ち下さい、今いつもの眼帯を…」

言いながら傷を隠そうとした柊の手を、夕霧が苦笑しながら止めた。

「よう回る口やねえ。かまへんよ、そのままで。ここには私達の他には誰もおらへんし、…それにうちかて似たようなもんやろ?」

今度は柊が笑って夕霧を見つめる番だった。

「…なるほど。そちらも化粧のない素顔は初めてですね。では、お互い痛み分けという事で」

夕霧は、大陸の使者としての謁見を終わらせてから即座に駆けつけたのだ。
今の彼は、いつもの華美な女装からは想像もつかない黒い文官姿、髪も結った形跡は残るものの無残に乱れ、普段の『夕霧』とは程遠い姿だった。

「覆面は間に合ったけど、服まではなあ…忍人さん、うちが男やって気がついたやろか」
「あの様子では気がついていないと思いますよ。声は夕霧でしたし」

夕霧が、ふう、と情けなさげに溜息をつきながら言った。

「あ~いったんこの女声出すと戻りにくいんよ。ほんまに使者として謁見した後でよかったわあ」

くす、と笑った柊が袖口からコショウの袋を出して、ぽんぽん、と軽く飛ばして弄んだ。

「もう!それまだ残っとったん?仕舞っておくれやす」

渋面を浮かべる夕霧にひとつ笑うと、柊は袋を袖に戻し、真顔になって言った。

「…夕霧、あなたには感謝しないといけませんね。本当に驚かされました。私には思いもつかない方法でした…」
「あら、うちの手柄とちがいますえ。うちは柊さんの頑張りの上前はねただけやもの」
「ああ、本当に酷い人ですね……」




柊は、あの日以来、時間があれば天鳥船の書庫に篭もり、膨大な既定伝承を隅から隅まで調べた上げたのだ。
言葉は違っていても繰り返し書かれているのは、やはり、忍人の暗い未来。
それでもどこかに救う糸口がないかと、何度も繰り返し木簡を手繰り、覆す事はできないかと模索していた。
――柊は、既定伝承に囚われていた。


日毎に疲れ果ててゆく柊を心配して、茶を差し入れに来た夕霧が、山と積まれた既定伝承を見ながら言った。

『これが既定伝承…書かれている事に逆らう事も、覆す事も難しい…?』
『…ええ。私も昔、逆らおうともがいた事もあるのですが…結果、無様に…大切な人を亡くしました。だからこそ今度は…今度こそは、決して失敗するわけにはいきません』
『そう…正攻法が、きかないというんやったら……もしかしたら!』
『夕霧殿?』
『柊さん、考え方や!』

夕霧は左手で既定伝承を広げて持ち、右手に茶の入った茶器を持った。

『既定伝承なんてただの木の束。ここに書かれていることが変えられないなら…』

そして、何を思ったのか、既定伝承の上で茶器を傾けたのだ。

『夕霧殿!?何をするんですか!それは忍人の伝承が書かれた大切な……!』

止める暇もなく、茶は既定伝承の上にこぼれ――そのまま止まらず、床へと流れ落ちた。
呆然とする柊に、夕霧がにっと不敵な笑みを向けた。

『枠の外、木簡の隙間から忍人さんを救いまひょ――譲君や!』




「ああ…今思い返しても、本当に何と酷い作戦なのでしょう。既定伝承を逆手にとって、その裏をかくとは、夕霧殿は私などよりよほど策謀の才能があって思わず嫉妬してしまいそうです」

「…そない嬉しそうに言われると、何や複雑な気持ちやわ」

「あなたの言うとおり、既定伝承を隅から隅までたどっても、譲君の存在はこの世界にありえなかった。きっと何かの運命の手違いで彼等は入れ替わった……」



いくつもの既定伝承には、言い回しこそはそれぞれ違ったが『即位式、中つ国女王が狙われる、忍人が生太刀を使う、彼は斃れ、女王が涙を流す』事が繰りかえして語られていた。

だから、彼らは既定伝承を何一つ覆さない事にしたのだ。

千尋が弓で狙われるのを、あえて息を潜めてじっと見過ごし、忍人が刀を抜く瞬間まで待って、彼を簀巻きにして「たおした」。
そして、忍人をたおした後は譲の残した、既定伝承の外の攻撃――スパイス・コショウ爆弾――で刺客を蹴散らしたのだ。


「おや…心から褒めているのですがお気に召しませんでしたか?策謀でも敵わず、褒め称える事もできぬとは、ああ、この上は、我が身の無能さを恥じてどこかに消え去るしかないのでしょうか……」

大げさに悲しんでみせる柊に、夕霧が呆れたように笑った。
そしてふと、真顔になって考え込んだ。

「さて、どないしよ。あなたは識る者、私は見る者、とは言ったけどなあ…私が見たこの国の物語は『そして女王とその恋人はいつまでも幸せに暮らしました』でええやろか?」
「…夕霧殿。そのような陳腐な言い回しで麗しの我が君と、私の愛する可愛い忍人の恋物語を語るとは、あまりにもあまりではありませんか」
「あら、あかん?」
「あきまへんな」

似合わぬ柊の言い方に、ぷっと夕霧が吹き出した。

「…なら、一緒に考えてくれへん?」
「夕霧殿」
「うちなあ、この通りの男前やし頭もええんやけど、文才だけが足りないんよ。口の回る柊さんがいてくれたら、この国の事や、千尋ちゃんの事も、もっと素晴らしく伝えられると思うんやけど」
「…あなたの仕事を、手伝えと?」

肩を揺らして、夕霧が笑った。

「柊さんは、うちの正体も目的も知ってるから面白うないなあ。それも既定伝承の力なん?」
「一族の力も相まってですが、まあ、大抵の事は」
「自分の未来も見えとるん?」
「……さあ、どうでしょう?」

夕霧は、笑って答えた柊をしばし見つめると、彼の伸びた前髪に手を伸ばした。
柊は夕霧が髪に触れた一瞬、身を引きかけたが、じっと夕霧の為すがままにしていた。
夕霧の指が、柊の髪をかき上げ、隠された傷跡に触れた。

「…ここに閉じ込めてあるのは、眼を塞ぎたくなる程の過去?それとも未来?」
「……」

柊は答えず、身体を引いて触れられていた手からそっと離れた。
軽い音を立てて、小さな花びらを幾つか乗せた春の風が二人の上を吹きすぎていった。

「私の行く末は…あの花のようなものです。風に身を任せ、塵となって飛んでゆく運命です」
「なあ、これは提案なんやけど…柊さん、私の国に一緒に行かへん?」

柊が目を丸くした。

「柊さん。その目で沢山既定伝承を見て、沢山の辛い経験をしたからこそ、起こるかも知れない悪い未来を、変えられたやろ?だから…今度は、柊さんが書いてみたらいいやない。既定伝承から抜け出した――中つ国に起きた奇跡を」

夕霧が遠い目をして空を見上げた。

「…譲君は、この国を知っとったやろ?異世界やけど、『やよいじだい』とか『やまたいこく』とかに近いって。書き記していれば、いつか、届くかもしれない。だったら……届くように、残るように……書きたい」

柊も夕霧にならって空を見上げた。
失った片目はもう空の蒼さを見る事はない。
けれど――眼帯のない今、傷の上にさす、日の光の暖かさを感じていた。
たとえ、消え行く運命は変えられないとしても、夕霧が示したように、既定伝承の僅かな隙間からでも、水は、風は、光はこぼれてゆく。

柊は、ふっと微笑んだ。

「……我が君の進んだ道の片隅に私の欠片が残るなら…それこそが私の生きた証かもしれませんね」
「柊さん」
「おや、何を驚いた顔をなさっているのです?私達は…共犯者、なのでしょう?」

笑って答えた柊に、夕霧は、ぱっと立ち上がった。

「柊さん、その意気や!ほな、こないなところでぼやぼやしてる場合やない。やる事は満載、まずは出発の用意しまひょ!」
「おやおや、忙しいお方ですね」

夕霧はまだ座っている柊に手を伸ばして、立ち上がらせた。

「共にいきまひょう、柊さん」
「……ええ」

夕霧と柊は互いに視線を合わせ、にっ、と一度笑いあってから、並んで歩き出した。

「…うちな、まずは地理からと思うとるんや。うちが国から辿った海路、陸路の行程をな」
「無粋ですね。そこはぼかして頂かないと。遙か彼方、遠く美しい夢の国だと思ってもらいたいではありませんか」
「ふふ、他国に警戒した配慮やな。やっぱり柊さんは軍師なんやなあ」
「何をおっしゃいますか。私は我が君の治める国の美しさを更に引き立てたいだけで他意などありません」
「食えないお人やねえ……まあ、ちょおっと大げさに盛っておこか。……千尋ちゃんは女王って感じやないけど……姫というにもなあ」
「であれば『姫神子』というのはどうでしょう?我が君の美しさ若々しさを閉じ込めて……」
「ああ、それええね。凛として千尋ちゃんの雰囲気にぴったりや。龍神の神子やし……」


柊と夕霧の後姿を追いかけるように、回廊には花びらが舞い落ちて風の軌跡を描いて消えていった。



君の声を聴かせて。
風に乗せて彼の国に届けるから。

それはきっと彼のところまで届くはずだから。


それが、去ってゆく私達の願い……


忍人、君は誰よりも幸せになりなさい。
そして、どうか遠い世界の彼も幸せでありますように。











 

 
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