はじまりの物語 ( 4 / 5 )
飛空都市の一角にある女王候補の部屋からは、苦しげな咳が聞こえていた。
ゴホゴホと咳き込む合間に、ヒューヒューと喉を鳴らして呼吸する。
肩を大きく上下させて、ようやく息ができている状態だった。
(……苦しい…。眠りたいのに、横になると息が詰まってしまうし……)
アンジェリークはベッドに突っ伏し、シーツを握りしめていた。
何日も病気と闘い続け、身も心も疲労の極に達している。
テラスに続く大きな窓の向こうは、珍しく嵐だった。
時折夜空に稲妻が光り、暗い部屋の中をあかあかと照らし出す。
と、不意に長い影が光を遮った。
「……え?」
ベッドの上まで伸びる黒いシルエット。
驚いて見守るうち、影は窓を押し開け、強い風雨とともに部屋に入ってきた。
床まで届く漆黒のマント。
黒いフード。
それが無造作に払いのけられると、長くつややかな髪がこぼれ出した。
「クラ……ヴィス様……?」
やっと声が出る。
「そのままでいろ」
部屋履きをはこうとしたアンジェリークを押しとどめ、雨に濡れたマントを脱ぐ。
マントの下からは、大きなかすみ草の花束が現われた。
「きれい……」
クラヴィスがベッドサイドに置いた花を、アンジェリークはうっとりと眺めた。
「……熱が高いようだな」
額に手をやり、不機嫌な声でつぶやく。
ひんやりとした感触が気持ちよくて、アンジェリークは目を閉じた。
高い熱でぼんやりしているせいか、今日はクラヴィスといても緊張しない。
「……眠れぬのか」
コクンとうなずく。
「咳がひどくて」
「…………」
クラヴィスはしばらく沈黙すると、ゆっくりとベッドに腰掛け、アンジェリークを包み込むように抱きしめた。
「!!?? ク、クラヴィス様……?!」
「力を抜け。楽になるはずだ」
その言葉とともに、クラヴィスの司る「安らぎ」のサクリアが柔らかく放出される。
「あ……」
緊張し、疲れきった身体が解きほぐされていくのがわかった。
アンジェリークは心地よい流れに身をまかせる。
「……どうだ」
しばらく後、低い声が尋ねた。
返事はなく、穏やかな寝息だけが聞こえる。
少女のあどけない寝顔を見て、クラヴィスはかすかに微笑んだ。
「……フッ……。よほど疲れていたか……」
腕の中で眠る彼女をベッドに戻そうとして、その両手がしっかりとローブをつかんでいることに気づく。
「……!」
母親にすがる赤ん坊のように、ギュッと握りしめられた両手。
いったんほどこうとして、クラヴィスは結局それをあきらめた。
ひとつ大きなため息をつく。
「……難儀なことだ…」
窓の外の嵐は、まだやみそうになかった。
* * *
弾けるような小鳥の声。
降り注ぐまぶしい日差し。
光の粒子に頬をくすぐられたような気がして、アンジェリークはゆっくり目を開いた。
本当に久しぶりの、穏やかで満ち足りた目覚め。
伸びをしようとして、すぐ横にある絹糸のような黒髪に気づく。
(……えっ…?)
その黒髪の持ち主は、驚くほどそばに横たわっていた。
「え、あ、あ……?!!」
「……黙れ…」
眉間に縦じわを寄せて、傍らの闇の守護聖は言う。
「え? で、でも……?!」
「……もう少し……眠らせろ」
目を閉じたままの不機嫌そうな表情。
その様子があまりに眠そうなので、アンジェリークはあわてて口をふさいだ。
そして、そうっとベッドから身を起こす。
枕元に置かれた、白いかすみ草の花束が目に入った。
ようやく昨夜の記憶がよみがえってくる。
嵐の中、わざわざやってきて、「安らぎ」のサクリアを送ってくれた人。
「クラヴィス様……」
知らず知らず、その名を呼んでいた。
「……冷えるぞ…」
相変わらず目を閉じたまま、クラヴィスは長い腕を伸ばしてアンジェリークを寝かしつける。
「……もう少しやすんだら、私は消える。お前は寝ろ」
「クラヴィス様……ありがとうございます…」
「……礼なら、お前のメッセンジャーに……」
声が途切れる。
どうやら、本当に眠ってしまったようだった。
アンジェリークはすぐそばにある長い睫毛をうれしそうに見つめた後、もう一度目を閉じた。
カーテン越しの柔らかな光の中、二人の寝息が交錯する。
やがて、控えめなノックの音がした。
そっとドアが開き、リュミエールが顔を覗かせる。
「アンジェリーク、具合は……」
そして目に入った光景に驚き、あわててドアを閉めた。
幸い、音はほとんど立たなかった。
「どうした、リュミエール。何かあったのか?」
ともにアンジェリークの様子を見にきた、光の守護聖が訝しそうに尋ねる。
「い、いえ。よく眠っています。咳のせいでずっと眠れなかったようですから、今はそっとしておいたほうがよろしいでしょう」
背中に冷や汗をかきながら、リュミエールは微笑んだ。
「そうか。では、皆にも見舞いを控えるよう伝えよう」
「はい。ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろし、守護聖たちは二人が眠る部屋を静かに後にする。
聖殿への道を辿りながら、ジュリアスはふと顔を上げた。
「そういえば、クラヴィスは今朝はまだ執務室に来ておらぬようだが」
「そうですか? では、わたくしが館までお迎えに行って参りましょう」
「よい! 甘やかしては癖になる。見かけたら、私の執務室に来るよう伝えよ」
「はい、承知いたしました」
ズンズンと大股に歩く後ろ姿を見送りながら、水の守護聖はつぶやいた。
「あの調子では、いつご出勤になられるかわかりませんが……」
金の髪の少女を守るように寄り添う、闇の守護聖の寝顔が思い出された。
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