秋の名残  ( 1 / 3 )

 



「……はあ……」

着物をたたむ手をふと止めて、望美がため息をついた。

「どうかしましたか?」

そばで筆の手入れをしていた譲が、気づいて声をかける。

「ううん……何でもない」

「何でもなくはないでしょう?」

文机に筆を置くと立ち上がり、譲は望美の正面にきちんと正座した。

「ゆ、譲くん」

「何でも率直に話し合うって約束したじゃないですか」




嵐山にある星の一族の邸。

祝言の後、二人がここに移り住んでからほぼひと月になる。

新しい家と新しい環境と新しい仕事に慣れるため、ひたすらバタバタと走り回った日々。

それがようやく一息ついて、久々に「夫婦」水入らずで晩秋の宵を過ごしていた。

室内に灯された灯りが、ジジッと音を立てて揺れる。




「それで?」

譲は身を乗り出して望美をまっすぐに見つめた。

「ほんと……言っても仕方のないことなんだよ」

「とにかく言ってみてください。俺は聞きたい」

「……うん」

少しだけ微笑んでみせた後、望美は視線を落とした。

「……あっちでは……私たちはどうなってるのかな……って」

「え……」




「あっち」が指すものは明らかだった。

譲と兄と望美が育った懐かしい場所、鎌倉。

家と学校があり、両親と友人たちが暮らす世界。




「私たち三人がいっぺんに消えちゃって、ずっと行方不明のままなら大事件だよね。
お母さんやお父さんもすごく心配してるよね」

「それはもちろん……そうでしょうね」

子供を一度に失った悲しみにくれるだけではない。

マスコミが騒ぎ立て、ありとあらゆる憶測が飛び交い、プライベートが暴き立てられる。

「あっち」はそういう世界だ。




「それくらいならいっそ……」

望美が言葉を継ぐ。

「……いっそ、私たちは始めからいないことになっていたほうがいいな。
お母さんとお父さんが苦しまずに済むのなら、そのほうがずっといい……」

「望美さん」

俯いたままの望美の肩は、微かに震えていた。

譲は腕を伸ばし、望美を抱き締める。

「そう……思わなきゃ、ダメ……だよね」

「…………」




隣同士で育った二人だからこそ、お互いの家族のことも、自分たちに注がれた愛情の深さもよくわかっている。

有川の両親は望美のことを娘のようにかわいがり、春日の両親も譲たち兄弟を息子のように愛おしんでくれた。

素晴らしい親たちに見守られて、自分たちはここまで育ってきたのだ。




「白龍がいったいどんなことをしたのか、知る術はないけれど……」

譲は口を開く。

「そして、両親の心の平安のためには、確かに俺たちの記憶は消えてしまったほうがいいのだろうけど……」

望美がたまらずにしゃくり上げた。

「俺たちは……俺たちの存在こそは、両親の愛情の証です。
あの親がいなければ、そして、愛情を込めて育ててくれなければ、あなたとこんな風に手を取り合って生きることなんてできなかった。
その事実だけは決して消えません。
どんなに運命に翻弄されても、現実に押し流されても、それだけは俺たちが手放してはいけない……『真実』だと思うんです」

「……譲くん」




涙に濡れた頬で、望美が譲を見上げる。

「わ……私、わがままだから……忘れてほしくなかったの。私という娘がいたこと。
お父さんとお母さんの子供として、とっても幸せに過ごしたこと。
二人をとっても……好きだったこと。ダメだな、こんなんじゃダメだな、私」

新たにポロポロと零れ落ちる涙を、譲は懐から絹布を出して拭った。

「だめなんかじゃありません。当然の感情です」

「ううん、でも、忘れてもらったほうがいい。
ずっとずっと、後悔させたり、叶わない希望を抱かせたりするくらいなら。
私という存在が消えることで、二人が穏やかに暮らせるなら……」




譲の胸の中で、望美はしばらく泣き続けた。

その髪を静かに撫でながら、譲も二度と会うことができない人たちに思いを馳せる。

どちらの家にも、最初から子供はいなかった。

そんな風になってしまうのだろうか。

この運命のつじつまを合わせるには、それしかないのだろうか。




「……俺も……両親のためには、そうであってほしいと思います。
でも、『消える』のは、きっと『始めからない』のとは違うから……」

「…………?」

「……違うと……思いたいから……」

不思議そうに見つめられて、譲は少し頬を染めた。

自分は望美よりもずっと、未練がましい考えをもっている。

けれどやはり、すべてがゼロになるとは思いたくなくて。




「……時空が違うから、俺たちがここで何かを書き残したとしても、それが両親に届くことはないでしょう。残念ながら、あの人たちと接触することは二度とできない。
でも、どんなことがあっても未来を信じて、上を向いてこの世界で生きていくことが、俺たちにできる最大の親孝行だと思うんです。
俺たちは、それができるようにちゃんと育ててもらいましたから。愛情を注いでもらいましたから」

「……うん」

ようやく、赤い目をした望美が微笑んだ。




「あなたは、暢気なところがお母さんにそっくりだし。正義漢なところはお父さん似かな。
だから、ちゃんとあなたの中にお母さんとお父さんはいるんですよ」

「え〜、そんなこと言ったら、譲くんが堅物っぽいのはお父さんにそっくりだよ。
将臣くんの大胆さはお母さんそっくりだし」

「そりゃ、二人の息子ですから」




思わず顔を見合わせ、プッと笑う。

そして、お互いの存在に感謝するように、手を握り、そっと寄り添いあった。