遙かゆかりのスポット巡り

将臣くんお誕生日おめでとう! 特集

小松谷(京都府京都市東山区)



平清盛の長男、平重盛は、生前「小松殿」「小松内府」などと呼ばれていましたが、これは彼が邸を東山の小松谷に構えていたためです。
信心深かった重盛は、阿弥陀如来が48の大願を立てたことにちなんで、四十八間の精舎を建て、一間に一つずつ燈籠を吊るしたため、「燈籠大臣」とも呼ばれました。

平家の都落ちの際に邸は灰燼に帰し、跡地は関白九条兼実の別邸を経て、やがて法然上人の在所となります。
石碑(下左)に残る小松谷御坊の名はその頃のものです。

御坊が廃絶した後、江戸時代に北野の正林寺(上、下右)が移設され、現在に至っています。
正林寺の本堂は、寺が営む小松谷保育園の園庭の奥にあるので残念ながら近づけませんでした。

  

このように、小松谷自体には重盛の邸の名残はほとんどありません(京都専売病院内の積翠園庭園が遺構との説も)が、実は、焼け残った灯籠堂が移築され、現在でも残っていると言われる場所があります。

下京区寺町にある浄教寺(下)がそれです。
残念ながら非公開なので内部を見学することはできませんが、境内には「内大臣平重盛公之碑」(下左)があり、本堂には重盛の木像も安置されているそうです。
屋根の部分には、確かに蝶紋があしらわれていました(下右)。

京都の中心部、四条河原町のすぐそばにそんなお寺があるなんて、調べるまでまったく知りませんでした。
やはり京都は千年の都、奥が深い!
   
 
『平家物語』では血の気が多く、尊大な清盛に対し、重盛は冷静で知的で慈悲に富む人物として描かれていますが、実際には、次男の資盛が侮辱された「殿下乗合事件」平家物語歴史館の項で、「清盛の孫、摂政・基房を辱める」としてご紹介しています)の際、摂政・藤原基房に徹底した報復を行っていますし、若いころはかなり血気盛んな武者だったようです。

その後、度々衝突を繰り返す清盛後白河上皇の間に挟まれて悩み、妻の兄が鹿ヶ谷の陰謀の首謀者として捕らえられて失脚し……と、波乱の人生を送っています。

『遙か3』清盛将臣くんに会ったとき、「似ている」と思ったのはきっと若いころの重盛に……なのでしょうね。自分がある意味追い込んでしまった長男への償いとして、将臣くんを保護したのかもしれません。

重盛が亡くなったのは1179年の7月、享年42歳でした。
将臣くんはその翌年、1180年の11月に異世界に迷い込んだのです。