遙かゆかりのスポット巡り

プレ『遙か3』特集~早すぎた源氏 木曾義仲の生涯~

篠原古戦場(石川県加賀市)



倶利伽羅峠の戦いに惨敗した平家軍は、 北陸道をたどって京へと敗走します。
十日後に再度両軍がぶつかったのが、加賀篠原の地でした。

逃げ腰の平家軍の中で、一人の武者が孤軍奮闘し、 殿(しんがり)を守り続けます。
しかしついに討ち取られ、その首は木曾義仲のもとに届けられました。

首実検の際に池で洗うと、武者の黒髪が見る見る白髪に変わります。
敵に老兵と侮られないよう、髪を黒く染めていたのです。
実はこの老武者こそ、幼い義仲を守り、 木曾の中原兼遠へと送り届けた命の恩人、斎藤実盛でした。

篠原古戦場跡には、命の恩人を討ち取ってしまったことを嘆く、 木曾義仲の石像(上)が建てられています。

 

篠原古戦場跡の入り口(上左)と、古戦場の内部(上右)。
斎藤実盛の生涯は、当時の武士のあり方の難しさを感じさせます。
最初は源氏義朝・義賢兄弟の争いに巻き込まれ、義朝亡き後は平氏に仕えて、義仲の旗揚げ後も平氏側にとどまり、平維盛の後見役として戦場に散ったのですから。

古戦場にあった祠(下左)の中には、 実盛の兜の複製(下右)が祀られていました。

 
近くには、実盛が髪を染める際に使った鏡を、投げ入れたといわれる「鏡の池」が残っています(下)。
この池は年に一度水をくみ出して清掃するため、その日のみ鏡を見ることができるのだそうです。


実盛の死を悼んだ義仲は、多太神社(下)に彼の兜や鎧の大袖などを奉納し、供養をしました。
これらは現在でも見ることができます。
松尾芭蕉は神社を訪れた際、「むざんやな 甲の下のきりぎりす」という句を残しています。

 

神社の本殿(下左)と、境内にある斎藤実盛像(下右)。
像の実盛は、鏡を見て髪を黒く染めているところです。享年73歳だったと言われています。

 

最後に、実盛の亡骸が葬られたと言われる実盛塚(下)をご紹介します。



伝説では、合戦から200年以上後にこの地を訪れた時宗14世遊行上人の前に、実盛の亡霊が救いを求めて現れたそうです。
上人の回向で成仏する様を、世阿弥は謡曲「実盛」で描いています。

源平合戦の前半において、平家側で最も心に残る武将が彼であったことは確かなようです。