前夜の夕食
玄関のドアを開ける前から、炒め物の香ばしい香りが漂ってきた。
ジャッジャッと勢いよく中華鍋を振る音が聞こえる。
リビングに入り、キッチンを覗くと、大きな背中がガスコンロの前に立っていた。
「……なんだ、兄さんが作ってるのか」
譲はリビングのソファにカバンを置きながら言う。
オーバーを脱ぐと、学ランの襟を緩めた。
「おお、譲。親父たちは夫婦そろって外食だとよ。お前が帰ってくるの待ちきれなかったからな」
「何? チャーハン?」
将臣の肩越しにチラリと鍋の中を覗く。そして呆れた声を出した。
「兄さん、勢いがあるのはいいけど、周りに飛ばし過ぎだろ。そんなにご飯こぼして」
「ば~か、このくらいの勢いでだな、直火の上をくぐらせないとチャーハンは」
「『美味しんぼ』の読み過ぎだって。後片付けは自分でやってくれよ」
譲はオーバーとカバンを持って、二階にトントンと上がって行った。
「作るのは俺がやるから、片付けはお前が……ってつもりだったんだが……」
将臣は頭をかきながら、今度は少し控えめに中華鍋を振った。
* * *
「うん、うまい! 兄さん、言うだけあるな」
「へへん、直火の力って奴だな。少しは見直したか」
二人で向かい合って座り、チャーハンが主菜の夕食を始める。
テーブルの上のサラダやスープ、小鉢の総菜を手早く用意したのは譲だった。
テレビからは、バラエティ番組の音声が流れている。
軽くため息をつくと、譲はスプーンを置いた。
「別に、見くびったりしてないさ。もともと兄さんは、俺が100時間かけてようやくできるようになったことを、1時間もかからずにマスターするタイプだし。料理だって本気になれば、すぐに俺よりうまくなるだろ」
「何だよ、それ。俺はそんな都合のいい天才じゃないぞ」
「そう……?」
あらためてまじまじと見つめられて、将臣は驚きを顔に表した。
「当たり前だろ! 実際、ばあさんや親父やお袋のウケは、いつでもお前のほうがいいし、学校の成績だって……」
譲の瞳の色が一段暗くなる。
「それは……俺が努力してるからだろ。兄さんみたいに、素のままで誰にでも受け入れてもらえるわけじゃない」
「譲?」
「ごめん。冷めちゃうな」
話を一方的に打ち切ると、譲は黙々とスプーンを動かし始めた。
将臣も仕方なく、テレビ番組に1人でツッコミを入れながら食事を続ける。
(いつから……?)
思い詰めたような弟の表情を見ながら、将臣は自問した。
(いつから譲は、こんなふうに俺を見るようになったんだろう?)
「すごい、お兄ちゃん! 僕にも教えて!」
「お、お前もやってみるか?」
「将臣くん、私にも教えてよ」
新しい遊びや、ちょっとした工夫。
探究心旺盛な将臣は、幼なじみ三人の中でいつでも改革者、推進者の立場にいた。
一つ年下の譲と、不器用な望美を引っ張って、次々と新たな冒険に挑んでいく。
そんなときいつでも、譲は目をキラキラと輝かせて、うれしそうについてきたものだ。
「僕もお兄ちゃんみたいになりたいな!」
真面目で、一生懸命で、とても素直だった弟。
本質的な部分は、多分今も変わっていないのだろうが……。
「ごちそうさま」
譲が食器を持って立ち上がったので、将臣は自分の皿もとうに空になっていたことに気づいた。
食器をシンクに運ぶと、片手に泡立てたスポンジを持った譲が「そこに置いてくれればいいよ。洗うのは俺がやるから」と告げる。
言葉はきついし、妙につっかかってくるようになったし、最近の譲の行動には不可解なものも多いが、
「……お前……やっぱり譲なんだな」
「な、何だよ、いきなり!」
将臣はにっこり笑うと、譲の髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。
「兄さん!!」
「素直が一番だ。じゃあ、まかせたぞ」
「待てよ! ガス台は自分で掃除しろよ!」
「……! ああ、そうか」
「……ったく、誰だよ、こんなに派手にこぼしたのは」
ブツブツ言いながら将臣がガス台を拭き始めた。
それを横目で見ながら譲が口を開く。
「お米には一粒一粒神様が宿ってるって、おばあさんが言ってただろ。兄さん、粗末にしてると罰が当たるぞ」
「ゲ! じゃあこれ全部食うか!」
「やめろよ! 腹をこわす!」
「俺の胃袋をなめるなよ」
「ああ、兄さんがサバイバル体質なのはよくわかってるよ」
「よしよし。ま、今回は遠慮しとくがな」
シンクとガス台の前でそれぞれ手を動かす二人の会話は、その後も案外と長く続いた。
翌日、高校の渡り廊下で別れ、長く再会が叶わないことを兄弟はまだ知らない。
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