病めるときも健やかなるときも

 



「千尋!!」

軍人らしく息こそ乱していないが、千尋の私室に飛び込んできた忍人は蒼白だった。

練兵中にもたらされた報告。

「陛下が負傷されました」

「今は私室に戻られて」

そこから先は自分の目で確かめたほうが早い。

橿原近郊の野を光の矢のごとく駆け抜け、宮中の回廊を駆け抜け、最奥にある私的エリア――王の夫である忍人自身の住まいでもある――にようやく到着したのだ。




「忍人さん…!」

「忍人、よくこんなに早く戻れましたね」

「ケガは……?!」

忍人が寝台に半身を起こした千尋に走り寄ると、傍らにいた風早と遠夜が場所を空けた。

「ごめんなさい、ちょっと足をひねっただけで、たいしたことないんです」

そう言って微笑む千尋の足首には、薬草による湿布が施されていた。

「謁見の後、段差を踏み外したんです。俺がついていながらケガをさせてしまって……」

「風早のせいじゃないよ! 私が勝手にコケたんだから!」

懸命に訴える千尋の頬が紅潮しているのに気づいて、忍人は額に手をやった。

「……熱か」

「…あ、ちょっと風邪っぽかったから」

バレた…という表情が、千尋の顔に浮かぶ。

忍人はひとつため息をついた。




「遠夜、風早、手当ては終わったのか」

「ええ。熱のほうは、この薬湯を飲めば多分」

遠夜が差し出す器を、忍人が受け取った。

「明日の予定は?」

「朝議と、謁見がいくつか。ただ、明後日には祭祀の予定があります」

風早の言葉に、忍人がしばし沈黙する。

政治と宗教の長を兼ねる王にとって、祭祀の主宰は重要な役目だ。

眉間にしわを寄せると

「では、陛下には明日は完全に休養していただいて、明後日の祭祀をどう進めるか検討すべきだな」

と言った。

「忍人さん、私、大丈夫です」

「ふらつくほどの熱と挫いた足でこなせるほど公務は楽ではない。その翌日の祭祀を欠席するはめになるのが関の山だ」

「!」




「あ~あ」という顔で見守る側近たちを振り返ると、忍人は「調整は可能だな?」と念を押す。

「おまかせください」

恭しく頭を下げたのは柊だった。

「明後日は、輿にて陛下をお迎えに上がりましょう」

「輿って、オーバーだよ、柊。杖があれば、私…」

「いえ、尊き御身にかかるご負担を少しでも軽くするのが家臣の務め。輿へは私が抱き上げてお乗せいたしますゆえ、どうかお心安くお休みください」

「ちょっと待て」

千尋と柊の会話に忍人が割り込む。




「何か?」

「なぜお前がそこに出てくる」

「大将軍にはほかの公務がおありでしょう?」

「ああ、忍人、柊が嫌なら俺がやりますから安心してください」

「何が安心なんだ、風早」

「そうです、失敬ですよ、風早。君はここまで陛下を運ぶ幸運に恵まれたのですから、少しは遠慮す べきです」

「しかし、祭祀の場では介添えも必要ですから、千尋のそばにいつもいる俺が適任かと…」

「いや、すべて俺がやる」




突然きっぱり宣言した忍人を、全員が驚いて見つめた。

「……忍人さん?」

千尋が寝台から夫を見上げる。

「王ともあろうものが、公衆の面前で夫以外の男に身を委ねるなど、慎むべきだ」

「み、身を委ねるって、そんな…!!」




真っ赤になった千尋を蚊帳の外に置いて、同門の議論はヒートアップする。

「ずるいですよ、忍人! あなたはいつでも陛下に触れられるでしょう!」

「何がずるいだ! 魂胆が丸見えだぞ、柊!」

「だけど、忍人には忍人の果たさなければならない公務があるでしょう?」

「そんなものは何とでも調整する。風早、お前こそ千尋に気安く触れすぎだ」

「ああ、なんと言うことでしょう。男の嫉妬は醜いですよ、忍人」

「邪な策略が漏れっぱなしなお前よりはマシだ、柊」

「いや~、参ったなあ、ははは」

風早が頭をかきながら苦笑いしていると、彼の袖を遠夜が引っ張った。

(ワギモの熱が上がっている)

「おっと、それはいけませんね」

千尋の顔の赤さは、羞恥だけではないらしい。




「忍人、そろそろ千尋を休ませないと」

風早の低い声を聞いて、忍人も我に返った。

「ああ、そうだった。すまない」

「どうかお許しください、我が君」

柊も深々と頭を垂れる。

湿布の交換や薬湯の投薬時期を確認した上で、千尋と忍人を残して彼らは去っていった。




ようやく静かになった私室。

寝台の上で身を起こしたまま、千尋ががっくりと肩を落とした。

「……もう、忍人さんったら…」

まだ赤い顔を力なく伏せる。

忍人は寝台に腰掛けると、彼女の顔を覗き込んだ。

「苦しくはないか、千尋? 足の痛みはどうだ?」

真剣に自分を案じる夫の瞳に、抗議の言葉は淡雪のごとくあっけなく溶けて消えた。

「だ、大丈夫です。ちょっと頭がぼうっとするだけ」

コツンと額を触れ合わせて熱を確認すると、忍人がため息をつく。

「俺の不注意だな、君の不調に気づかないとは」

「そんなことないです、私が隠してたのがいけなくて…」

「……なぜ隠した?」

「……!」




黙り込んだ妻の顔をしばらく見つめた後、忍人は口を開いた。

「……まさか……薬湯……か?」

「!」

「千尋……」

「だ、だって、すごく不味いんですよ! 忍人さんは飲んだことないから知らないけど…!」

「確かに最近は飲まないが、病を治すためだ、そのくらいは我慢して当然だろう」

「私のいた世界では、もっと風邪薬って飲みやすかったんです! 甘いのとか、粉薬でもすぐに溶けたし。あんなに不味いものをたくさん飲むのは結構つらいんですよ!」

「なるほど」




何を納得したのか、寝台から立ち上がると、忍人は傍らに置いていた薬湯を一気にあおった。

「忍人さんっ?!」

驚く千尋を片手で抱き寄せると、そのまま唇を合わせて薬湯を流し込む。

「?!×△*?!???」

手をバタバタさせて暴れる千尋にまったく頓着せず、何度か土器から薬湯を補給すると、最後の一滴まで手際よく飲ませてしまった。

ようやく解放された千尋は目を白黒させながら抗議の声を上げる。

「な、な、な、何をす……?!」

「確かに旨くはないが、耐えられないほどでもない。俺も一緒に味わったんだ、『知らないから』言ってるわけじゃない」

「……!!」




パクパクと口を動かした後、何一つ言い返せないことを悟って千尋はうつむいた。

忍人は彼女のうなだれた頭を胸に包み込む。

しばらく沈黙が流れた後、忍人が口を開いた。

「……もう、これからは俺に不調を隠したりしないでくれ」

その声がひどく沈んでいることに、千尋は驚いた。

顔を上げると、忍人の切なげな瞳が見つめている。

「……忍人さん?」

「君のことを他人から告げられるのは耐えられない。俺は……常に一番そばにいる者でありたい」

「……!」

千尋は頬を染めると、忍人にぎゅっと抱きついた。

「……はい。約束します」

「頼む」




前髪にひとつ口付けを落とすと、忍人はもう一度、千尋を抱きしめた。






その後一週間。

橿原宮の人々は、至る所でお姫様抱っこされて移動する王の姿を目撃することとなる。

王とその夫があまりに仲睦ましげなので、それを非難する者は誰もいなかったという。

一部の八葉を除き(笑)。












 

 
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