トラウマ

 



「譲くん!」

切羽詰まった声で呼ばれて、譲はあわてて振り向いた。

有川家の二階にある譲の部屋。

息を切らした望美が、扉のところに思い詰めた表情で立っていた。

「先輩?」

「これ、取るのものすごく大変だったって」

手にはチケットが1枚。

先日、譲が望美の誕生日にプレゼントしたものだ。




「……あ……、いえ、別にそれほどじゃ……」

「だって、うちのクラスの進藤くんが徹夜で並んだって言ってたよ! 
そのとき、譲くんの姿も見たって」

しまった、あの列の中には望美の知り合いがいたのか……。

言い逃れのしようもなく、譲は目を伏せた。

「…………すみません……」

「違うの!」

望美が譲の両腕をつかんで言う。

「譲くんはちっとも悪くないの。私が考えなしで欲しいなんて言ったからいけないんだよ。
それよりも私……」

望美がどんどん涙声になってくるのに、譲は焦った。

「先輩?!」

「私……」

望美が譲の胸にポスンと飛び込む。

まるでいつかの廚でのように。




「先輩、いったい……?」

「お願い、私に黙って譲くんが苦しまないで」

「え?」

ポロポロと涙がこぼれだす。

「私、鈍感だからすぐに譲くんを傷つけてしまう。
譲くんが、いろんな苦しみや辛さを抱えても、全然気づけない……。
怖いの、自分が知らない間に譲くんに無理させてしまうのが……」

「先輩……」

望美は胸にしがみついたまま、肩を震わせた。

その言葉が意味するものは明らか。

譲は密かにため息をついた。




望美はいまだに、一度譲を失った痛手から回復していない。

譲自身は夢で見ただけの、しかし、望美は現実として体験してしまった、屋島での悲痛な別れ。

譲が抱えていた苦しみにまったく気づけなかったことが、望美の心をズタズタに切り裂いた。

あのとき負った傷は、元の世界に帰ってきた今でも、少しの刺激ですぐに鮮血を噴き出す。

このままではいつまでたっても、望美は自分を責め苛み続けるだろう。




しばらく黙って髪を撫でた後、譲はぽんぽんと軽く望美の頭を叩いた。

「……?」

頬を濡らしたまま、望美が顔を上げる。

「……先輩、そんなこと言わないでください」

譲は少し困ったように微笑んだ。

「譲くん……?」

ぽかんとしている望美の涙を指で拭う。

「男は、好きな女の子が喜ぶなら、ちょっとくらい無理するものなんですよ。
格好つけたり、見栄をはったり。子供っぽいけど、そういう生き物なんです」

「………え……」

潤んだ瞳がまっすぐ見つめる。

「俺は丈夫だし、先輩のクラスの男子と同じで、一晩くらい行列したってビクともしません。
それにそのチケットを渡したとき、先輩、本当に喜んでくれたでしょう? 
それだけで十分、報われるんです」




青ざめていた望美の頬に、徐々に血の気が戻ってきた。

「……でも……」

「俺の周りにもたくさんいますよ。彼女へのプレゼントを買うために、肉体労働系のバイトしたり、品切れの商品探して何軒もショップを回ったりする奴。
でもみんな、彼女が喜んでくれるんならそれでいいんです」

さすがにその先は顔を見ながら言えなくて、譲は望美を柔らかく抱きしめた。

「一番大切な人だから。いつも笑って……輝いていてほしいから。
男は馬鹿みたいに必死になるんですよ」

「……で、でも……譲くんにもしものことがあったら……」

胸の中で、赤くなった望美がモソモソと言う。




「ないですよ。戦利品を持って彼女のところに行かなきゃ、笑ってもらえないでしょう? 
最悪空振りでも、ちゃんと戻ってきます。
で、どんなに苦労したか、どんなに頑張ったか、延々と聞いてもらいます」

ようやくクスッと望美が笑った。

譲は心の底で安堵する。

「……男の子ってかわいそう」

「……いいんですよ。ちゃんとご褒美はもらいますから」

「……え?」

見上げた顔を大きな手のひらがとらえる。

ゆっくり、やさしく、「ご褒美」を請う唇が下りていった。



* * *



「でもやっぱり、申し訳ないな……」

プレミアムチケットだと判明した紙片を、ヒラヒラさせながら望美は言う。

「よく考えてください、先輩」

リビングのテーブルに紅茶のカップを置くと、譲は指を折りながら数えた。

「最初にチケットを渡した時、コンサートを待つ間、コンサート当日、コンサートの後……。
何回も一緒に喜んだり、楽しんだり、思い出話をしたりできるでしょう? 
俺にとっては割のいいプレゼントなんです」

そう言う譲の顔を、望美はじいっと見つめた。

「……先輩?」

何かまずいことを言ったかな? と、内心少し焦る。

「……プレミアムチケットも、ケーキも、お花も、宝石も……」




望美は譲の腕を取って身を寄せた。

「譲くんがこうして、そばで笑っていてくれることにはかなわないんだよ」

「……!!」

「……私は譲くんが幸せそうなのが、一番うれしいの。
自分が幸せなのよりもずっとずっとうれしいの……!」

こちらを見上げて微笑む望美に、譲は言葉をなくした。

本心から言っているのだとわかるだけに、何も返すことができない。




黙って肩を引き寄せ、耳元で囁く。

「……俺が笑えるのは、先輩が笑ってくれるからです」

くすぐったそうに望美が笑った。

「じゃあ、ず~っと一緒に幸せでいようね」

「……はい」

少し泣きたいような切ない幸福。




あまりにも深く傷ついてしまった心を、何もなかったころに戻すことなどできない。

けれど、幸せと信頼と日々の小さな喜びで、徐々に癒していくことはできるはずだから。




あなたの涙が乾くまでの時間が、少しでも短くなるよう、不安が少しでも軽くなるよう、俺にあなたを守らせてください……。




譲は望美の髪を一房手に取ると、誓うようにそっと口づけた。





 


 
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