六条堀川館(京都府京都市下京区)
西本願寺の北、東急ホテルの前に立つこの石碑は、六条堀川館に引き込まれていたという左女牛井(さめがい)の井戸の跡を示しています。
平安時代から名水として知られており、将軍足利義政への献茶の際に使用されたり、かの千利休も愛用したとか。
源氏の武者は代々この六条堀川に邸を構えてきました。
彼らの信仰を集めたのが、現在も残る若宮八幡宮(下左、下右)です。
1058年に後冷泉天皇の勅を報じて源頼義(八幡太郎と呼ばれる源義家の父)が自らの邸の向かいに創建したと言われ、直系の子孫に当たる源頼朝からも手厚い保護を受けています。
往時には本殿、楼門、三重塔など壮麗な殿舎を誇る神社でしたが、応仁の乱で焼失。
その後、度々移転し、1654年に五条坂に落ち着きました。
一方で、若宮町の町民に守られる形で、この創建以来の宮も存続。
うっかりしていると見逃しそうなほど小さいですが、地域で今も愛されていることが伝わってきます。
この源氏村とでも呼ぶべき一帯に残るゆかりの地をもう少しご紹介しましょう。。
若宮八幡宮のすぐそばにある五條天神(下左が正門、下右が裏門)。
平安遷都の際に、大和国宇陀(『遙か4』の橿原宮のそばの地名です)から勧請された古い神社で、蛤御門の変の際に社殿が焼失したため、現在の本殿は近年作られたものとのこと。
ここがなぜ「ゆかりの地」かと言うと……
五條天神の境内(下)。
実は、義経と弁慶が最初に出会ったのが、この神社の近辺だったと『義経記』に書かれているのだそうです。
この五條天神に丑刻詣(太刀千本取りの祈願)をした弁慶が、笛を吹きながら歩く牛若を見つけ、腰の黄金作りの太刀を奪おうとするところから有名な争いが始まった……ということらしく、戦いの場になった橋も、鴨川の五条大橋ではなく、この神社の東側にあった西洞院川の橋だとか。
神社にはばっちり「義経・弁慶出会いの場所」という表示があります。
真偽はともかく、ちょっと想像してみるのも楽しそうですね。
上記のような伝説があるため、五條天神のある松原京極は「義経・弁慶ゆかりの街」というのがキャッチフレーズ(下左)。
街灯にはこんなイラスト(下右)まで飾られています。
力が入っています!
最後にご紹介するのは、新玉津嶋神社(にいたまつしまじんじゃ)(下左、下右)。
源氏の街の真ん中に平家ゆかりの神社を見つけたので、びっくりしました。
この神社は藤原定家の父で、歌人として名高い藤原俊成が、自分の邸内に歌道の神「衣通郎姫」を勧請したことに始まるそうですが、彼の門下だったのが平忠度です。
木曾義仲が京に攻め入ったため、平家一門は都落ちを余儀なくされましたが、その際忠度は危険を顧みずにこの邸に引き返し、当時『千載和歌集』を編纂中だった俊成に、「一首なりとも選んでほしい」と自らの歌を託しました。
その後、平家一門は滅亡。源氏の世となったため、俊成は「読み人知らず」として忠度の次の歌を『千載和歌集』に載せたと言われています。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
こういった由縁から、この神社は短歌、俳句、文章の上達を祈願する人の信仰を集めているそうです。
『遙か3』の中では、九郎と弁慶は六条堀川館で起居し、必要に応じて景時邸を訪ねるという設定になっていましたね(弁慶さんの隠し部屋は景時邸のほうにあったけど)。
そして、那須与一に教えを請い、弓を鍛錬するため、譲くんも堀川館に通っていました。
望美ちゃんが迎えに行ったイベントについては「京邸」をご参照いただくことにして、『遙か3』の一周目ではこの六条堀川館も炎に包まれてしまいます。
まだ火が回っていない六条櫛笥小路の景時邸に駆けつけたら……という哀しい展開でした。
史実では、腰越から戻ってこの邸で病気療養中の義経を、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が夜討ちしています。
この堀川夜討によって兄弟の決裂は決定的となり、義経は京を落ちていきます。
長い逃亡の旅の始まりでした。