義仲寺(滋賀県大津市)
木曾義仲の正式な名は源義仲。 源義朝の弟、源義賢の嫡男です。
NHK大河ドラマ『平清盛』では、源氏重代の太刀「友切」を奪うため、 義朝が息子の義平に義賢を殺させていました。
実際、義仲は2歳のときに父を失い、中原兼遠の庇護の下、木曾で育ちます。
1180年に挙兵。
3年後に平家を都落ちさせて入京を果たしますが、 翌年、源義経率いる鎌倉軍に打ち破られて、 この義仲寺のある大津で亡くなったと言われています。
大津にたどりついたときには自軍の兵とも離れ、中原兼遠の子で乳兄弟の今井兼平ほか数騎のみとなっていました。
兼平が時間を稼いでいる間に自害しようとした義仲は、顔を矢で射られ、絶命します。
それを見た兼平は太刀を口に含み、馬から飛び降りて自害したそうです。
子供のころから共に育ち、兵を挙げて上洛し、夢を叶え、やがて夢破れた主従の壮絶な最期でした。
義仲の首塚は、京都東山区の法観寺(八坂の塔のある寺)にあります。
義仲寺境内にある木曾義仲公の墓(左上)と、巴塚(右上)。
義仲の死後しばらくたってからやってきた尼が、この地に庵を結び、義仲公の塚の供養を行いました。
里人に名を問われても「名も無き女性」としか答えなかった彼女は、義仲の愛妾、巴御前だったと言われています。
彼女は中原兼遠の娘で、兄の今井兼平と同様に義仲の幼なじみでした。
巴塚の説明書きによると、義仲とともに大津に落ち延びてきた巴はともに死ぬことを許されず、後に鎌倉幕府に捕らわれて御家人和田義盛の妻となったそうです。
義盛の死後に落飾し、各地を回った後、この場所にたどりついたのだとか。
しばらくとどまった後、故郷の木曾に帰り、九十歳近くまで生きたと語り継がれているそうです。
山吹供養塚(左上)と、木曾八幡社(右上)。
山吹は義仲の愛妾の一人で、病を得て京都に残っていましたが、敗戦の報を聞いて大津にやってきます。
すでに義仲は落命した後で、それを知った彼女は自害したとも、捕らえられたとも言われています。
この供養塚はもともと大津駅前にあったものを、駅の改装の際にこちらに移したのだそうです。
ライバルにやってこられて、巴御前的にはあまりうれしくないかな?
義仲の愛妾としては、ほかに葵御前も有名ですね。
彼女は倶梨伽羅峠の戦いの際に戦死したと言われています。
義仲寺の境内(上)。
戦国時代には周辺の山地まで含む広大な寺域を誇っていたそうです。
しかし、この寺が現在まで存続しているのは、江戸時代に木曾義仲に心酔し、死後、その横に葬られることを願った人物が非常に高名だったことが大きいでしょう。
彼が最期に詠んだ俳句の句碑が、境内に立てられています。
「旅に病んで 夢は枯野を駆け廻る」
松尾芭蕉の墓(左上)と、彼の像が置かれている翁堂(右上)。
そう、その高名な人物とは、江戸時代前半の俳諧師、松尾芭蕉です。
源平合戦ゆかりの地を巡ると、驚くほど多くの場所で芭蕉の句碑に遭遇します。
有名な「夏草や 兵どもが夢の跡」は平泉で詠んだものだし、平家の老将、斎藤実盛が木曾義仲に討たれた石川県の篠原古戦場では「むざんやな 甲の下の きりぎりす」という句を残しています。
『奥の細道』の旅行ペースがものすごく速いため隠密説まで囁かれていますが、彼を駆り立てたのはオタク魂だったんじゃないかなあ……。
源平大好きで、全国を追っかけて回って、ついには一番好きな木曾義仲の墓の横に葬られるという夢まで叶えてしまった松尾芭蕉。
偉大なるオタクの先人として、尊敬を込めて芭蕉先輩と呼ばせていただきたいと思います。←
ちなみに、『遙か3』冒頭の宇治川の戦は、鎌倉軍が最初に木曾軍を打ち破った戦いでした。
譲くん「宇治川……九郎義経……木曾義仲との戦か!」
九郎さん「木曾とはほぼ決着はついたんだがな」
そして倶利伽羅峠では、木曾義仲と平家の合戦場跡である 猿ヶ馬場、巴塚、葵塚、地獄谷などを巡っています。
弁慶さん「ここで戦があったからですよ。木曾義仲…… 木曾の源氏と京の平家がこの場所で戦ったんです」
譲くん「倶利伽羅峠の戦いか……」
歴史に詳しすぎる高校1年生!
望美ちゃんを初めて見た九郎さんは、「木曾の女兵?」とつぶやいていたし、 直接登場しないものの、木曾義仲はこの時代の主役の一人なのです。