水紋 ( 2 / 2 )
相変わらず外見は女性のままだが、水の守護聖は無事日常業務に復帰した。
緑と風の守護聖は、私邸への出迎えから荷物運びまで、ありとあらゆる雑用を買って出て、彼(彼女?)が快適に過ごせるよう努めた。
闇の守護聖のもとに向かうリュミエールの、ハープを運ぶのも大切な仕事である。
「本当に申し訳ありません、マルセル」
「そんなことおっしゃらないでください!
今の僕はリュミエール様より力持ちなんですよ。
何でもお手伝いしますから」
(でもいっつもこんなに重いものを運んでたんだ……)と、心の底で驚きながら、緑の守護聖は執務室の扉を開けた。
「クラヴィス様、お邪魔いたします」
「……ああ」
リュミエールの外見上の性別が変わっても、闇の守護聖は特別にいたわるわけでも、気遣うわけでもなく、ハープに黙って耳を傾ける。
それはリュミエールにとって、心底ほっとできる時間でもあった。
「あの、リュミエール様、本当に申し訳ありませんが、今日は……」
「大丈夫ですよ。ありがとう、マルセル」
ちらりとクラヴィスのほうに視線を投げてから、緑の守護聖は部屋を退出した。
執務の関係で、今日は彼もランディもリュミエールを私邸まで送ることができない。
それはつまり、リュミエールがあの重いハープを自分で運ばなければならないということだ。
「クラヴィス様に……期待するのは無理だよね……」
ふうっとため息をついてから、緑の守護聖は自分の執務室に向かった。
* * *
いつもの演奏が終わり、
「それではそろそろ失礼いたします」
と、リュミエールが立ち上がろうとすると、この日初めてクラヴィスが長椅子から身を起こした。
長い手をゆっくりとハープに伸ばし、静かに持ち上げる。
「ク、クラヴィス様! そのようなことはわたくしが……!」
「……扉までだ……」
言葉どおり、背の高い扉をゆっくりと開くと、闇の守護聖は虚空に向かってハープを差し出した。
それがしっかりと受け止められるのを見て、リュミエールは扉の向こうに瞳をめぐらす。
立っていたのは、驚きを顔に刻んだ炎の守護聖である。
「……行け」
面倒そうに扉に背を向けると、クラヴィスは再び長椅子に身を沈めた。
「し……失礼いたします」
余計な音をたてないよう、静かに扉を閉め、ひとつ息をつくと、ようやくリュミエールはオスカーに目を向けた。
「クラヴィス様にご用だったのではないですか?」
「いや、坊やたちが」
まともに見つめられて、オスカーは目をそらす。
「おまえを迎えに行く様子がないので、もしかしたらと思って待っていたんだ」
「わたくしを……?」
ますます近づいてくる深海の色の瞳に耐えられなくなったのか、彼はいきなり歩き出した。
「ありがとうございます」
控えめな声が背中に投げられる。
「いや……」
珍しく沈黙が場を制した。
「その……ジュリアス様からも近づくなと言われているしな」
オスカーが口を開いたのは、宮殿を出て森の小径を辿りだしてからだった。
「必要がない限り、なるべく手は出すまいと思っていたんだ」
「オスカー、あなたは……」
リュミエールは驚きに足を止めた。
「まさか……毎日わたくしの帰りを気にしていてくださったのですか」
「正確には、行き帰りを……だ」
前を向いたままオスカーがつぶやく。
「悪いな、これはもう俺のどうしようもない性分というか、その、
女性が苦労するのを見るのは忍びないんだ。
今のおまえは俺にとっては女性なんだから、仕方ないだろう」
吐きだすように、わざと明るく続けたが、いっこうに足音が近づいてこないのでオスカーは振り向いた。
リュミエールはまだ、さっきの場所に驚いたまま立ち止まっている。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
走り寄り、肩をつかんで問いかけると、不意にリュミエールが花のように微笑んだ。
「あなたがなぜ女性に人気があるのか、ようやくわかりましたよ」
屈託のない笑顔で、水の守護聖は続ける。
「あなたは不実なのではなく、全員に対して誠実なのですね。
わたくしはずっと誤解していたようです」
声にならない言葉を数語つぶやくと、オスカーの頭がガクリと落ちた。
「オスカー?」
「限界だ」
「はい?」
ハープ越しに、何かを耐えているような炎の守護聖の顔が見える。
「墓場まで持っていくつもりで、俺の話を聞いてくれるか」
「は……はい……」
顔を上げ、しばらく見つめた後、傍らの草むらにハープをそっと下ろすと、オスカーはいきなりリュミエールを抱き締めた。
「オスカー!」
「俺はおまえが大嫌いだ!
その取り澄ました顔も、上品ぶった物腰も、優しそうに見えて頑固そのものの性格も!
やることなすこといちいち気に障って、どうしてこんなヤツが同じ守護聖なのかと何度も神を呪った!」
言葉とは裏腹に、抱き締める腕は限りなく優しく、柔らかい。
「どうやら……俺はおまえが男であることが悔しかったらしい」
「オスカー」
「本当に。
おまえが女でさえあれば、俺が永遠の愛を捧げるのは確実におまえだっただろう。
その優しく美しい眼差し、優雅な仕草、情熱を秘めた清らかな魂……。
こんなことになるまで、気づかなかったなんて……」
夕暮れが辺りを金色に染めていた。
ほかに人影ひとつない森の中、長身の青年がこの上なく愛しいものを抱き締めて佇んでいる。
「オスカー……ありがとうございます」
穏やかな声にうながされるように、オスカーは腕をゆるめ、リュミエールの瞳と向かい合った。
「わたくしも、自分が女性だったらあなたに恋をしたでしょう」
「おまえはクラヴィス様のほうが好きだろう」
「あの方は、わたくしという人間を受け入れてくださっただけです。
性別は関係なく」
「よくわからん」
くすっと水の守護聖は笑った。
「オスカー、わたくしは少し背が高くなったでしょう?
徐々に戻りつつあるのですよ」
はっと息を呑んで、炎の守護聖は少し身を離す。
確かに、先日に比べると背は伸びている。
だが、頼りなげな肩や細い腰はまだ女性そのものだった。
「いったい……好きと嫌いの境はどこにあるのでしょうね?
あなたは、明日になればわたくしを嫌いになってしまわれますか?」
「そんなことは……」
また、花のような微笑みがリュミエールの顔に浮かぶ。
「ならば、これはわたくしたちにとって新しいスタートなのではないですか?
恋人同士にはなれなくても、親友にはなれるかもしれません」
「親友……」
忠誠を捧げる対象と、愛を捧げる対象……その二つしかなかったオスカーの世界には、新たな概念。
「わからん。そんなものが俺に必要なのかも……」
「わたくしには、あなたが必要ですよ」
ストレートな言葉に、オスカーは思わずリュミエールの顔を見つめた。
「あなたもそう思ってくださるのなら、わたくしたちはきっと親友になれます」
「そうか……」
にっこり微笑む顔を見て、自分の中の激情が穏やかな好意に変化していくのがわかった。
確かに……これは恋ではないのかもしれない。
オスカーの中で、リュミエールは「同僚」に戻っていく。
「ジュリアス様とクラヴィス様のような親友になれたら素敵ですね」
「あの方たちが親友?!」
「気がついていらっしゃらないのですか?
あれほどの親友はないと思いますよ」
オスカーはふうっと大きなため息をついた。
張り詰めていた緊張の糸が、ようやく弛緩したらしい。
「『親友』の奥は深いな。恋愛と違って、俺にはまだまだ未知の領域だ」
いつになく気弱なその姿を、リュミエールは少し楽しげに見つめている。
一番星が、聖地の空に輝き始めていた。
|