早春の陽光 ( 1 / 2 )
「ゴホン」と軽く咳をすると、濃藍の上着をまとって忍人は自室を出た。
ずいぶんと長い間床に就き、寝たり起きたりの暮らしが続いていたが、ここ数週間の歩行訓練のおかげで、足元はしっかりしている。
第一、ふらついたり、咳をしたりする姿を彼女に見せるわけにはいかなかった。
たちまち泣きそうな顔になり、「寝台に戻ってください!」と必死に訴えるからだ。
二ノ姫……最近では千尋と呼ぶことの多い少女の即位式が近づいていた。
桜の花が咲くころ、彼女はついに王となる。
国を失い、主を失って迷走してきた中つ国の民、そして忍人自身にとっても、それは実に感慨深いことだった。
橿原宮の中を歩き、歩哨の兵たちの勤務ぶりを点検しながら、忍人の思いはしばしば、禍日神との最後の戦いの日へと飛んだ。
* * *
あの決戦の際、正直言って自分の命はもう尽きたと感じていた。
豊葦原に戻り、千尋を橿原宮に送り届けた直後に昏倒して、長い時間眠り続けた。
暗黒の引力は圧倒的に強く、身をまかせ、落ちていってしまえばどれだけ楽だろうと何度も思った。
光がまったく射さない、深い深い真の闇の中。
「……忍人さん」
誰よりも欲してやまない女性の声が、微かに聞こえた。
頬に触れ、優しく手を握る感触。
穏やかなぬくもり。
熱い雫がひとつ、またひとつ、手の甲に落ちてくる。
「……千尋……?」
どうしたのだろう?
泣いているのか?
俺は君のそばにいなければ。
流れる涙を拭わなければ……。
その思いだけが、忍人を現世に止めた。
「千尋は、君が目覚めるまでそばを離れないと言い張ったんですよ」
風早が後で、苦笑いしながら教えてくれた。
狭井の君や高官たちが説得してもまったく耳を貸さず、昏々と眠り続ける忍人のそばで、祈り、励まし、懇願して、一睡もせずに見守っていたのだという。
実際、目覚めた忍人の目に最初に飛び込んできたのは、涙をいっぱいに浮かべて微笑む千尋の顔だった。
「……よかった」
「……千尋……?……」
「よかった。忍人さんが目覚めてくれて本当によかった。私、私……」
堰を切ったように涙が溢れ出し、そこからは言葉にならなかった。
まだぼんやりとする意識の中で手を伸ばし、金色の髪に触れた。
「……心配を……かけたようだな」
嗚咽をこらえながら、千尋が頭を左右に振る。
必死の否定を、とめどない涙が裏切っていた。
「……泣か……ないでくれ……。君に泣かれるのは……ひどくつらい……」
「……忍人さん、最初から私を泣かせてばかり……だったのに」
「……そうか……? 君はいつも怒っていた気がするが……」
「忍人さんに、……言われたくない……」
ポロポロと涙をこぼしながら、千尋が微笑む。
その表情を、何と美しいのだろうと思いながら忍人は眺めていた。
いつの間にか固く握り合った手から、ぬくもりが伝わってくる。
それは確かに、暗闇の中でずっと自分を支えてくれた温かさ。
「……やはり君……だったのか……」
「……え?」
「……すまない。もう少し、眠りたい……」
「はい、また起きてくれるのを待ってます」
「……今度起きたときには……泣かないでくれ」
返事のかわりに千尋の頬をまた涙がつたった。
忍人はその涙を拭い、頬を掌で包み込むと、ゆっくりと目を閉じた。
* * *
「あ、姫様は今日はこちらにはいらっしゃらないのです」
訪ねていった執務室の前で、千尋付きの釆女が申し訳なさそうに告げた。
「執務室に……おられないのか? 謁見でもされているのか?」
「い、いえ……」
視線を宙に泳がせ、釆女は口ごもる。
まだ年若い彼女はよく千尋を助け、くるくると立ち働くが、嘘をつくのは苦手らしい。
「………わかった。邪魔をした」
何か事情があるらしいと察して、忍人は背を向けた。
「か、葛城将軍、あ、あの……」
「?」
久々に執務室を訪った忍人をそのまま帰すのは忍びないのか、釆女は口を開いた。
「実は………」
「うわ! これ、すごくおいしい!! どうやってこんな味出したの? カリガネ」
「……コツがある」
「作り方なんてどうだっていいからよ〜、もう一口食わせろよ〜? な?」
さっきからつまみ食いばかりしているサザキを、カリガネはとうとう廚から叩き出した。
「な、何だよ! 姫さんと二人きりになろうって魂胆か?!」
「お前はそこで、忍人が来ないか見張っていろ」
「忍人〜? やっこさん、まだ寝込んでるんじゃないのか?」
「ううん。もうお部屋の周りは歩いてるって。でも、さすがにここまでは来ないと思うけどな」
味見用の木さじを持ったまま、千尋が答える。
ここは橿原宮の炊事のいっさいを取り仕切る大炊殿(おおいどの)。
そのかまどの前で、カリガネと千尋はお菓子作りに余念がなかった(サザキの邪魔はあったが)。
千尋のリクエストは、「忍人さんが喜ぶ甘くないお菓子」だ。
「……『がとーしよこら』でなくてもいいのか」
「ガトーショコラ? あれはすごく甘いよ。え、でも、どうしてそんな名前知ってるの?」
「夕霧が、姫の好物だと教えてくれた。道臣が材料集めを放棄したので、作れなかったが」
「ちょ! だって、カカオって南米とかじゃないと取れないはずでしょう? いくら道臣さんが頑張っても、絶対手に入らないよ!」
「そうなのか。道臣はひどく落ち込んでいた」
「……あとで私から謝っておくね」
いったいいつの間にそんなことになっていたのか。
これからは向こうの世界の話をするのも気をつけなければと、千尋は肝に銘じた。
目の前でグツグツ煮えているのは、甘〜いシロップ。
こちらは「義理」用で、これを使ったお菓子も数種類教えてくれるとカリガネは言った。
「どれも私が作って姫に届ければ済むことだが」
「ごめんね、カリガネ。でも今回のお菓子は自分で作りたいの」
ただでさえ多い日常業務に即位式の準備が加わり、最近の千尋はまさに目が回るほど忙しい。
しかし、かなりの無理をして仕事を前倒しで仕上げ、半日の自由をようやく勝ち取ったのだ。
「では、忍人の菓子からとりかかる。私がやるのをよく見ていてくれ」
「はい! お願いします」
「……………」
大炊殿の外で聞くとはなしに中の会話を聞いていた忍人は、困惑していた。
釆女から千尋が廚にいると聞いて、「即位式を前にいったい何をやっているのか」と説教するため足を運んだのだが、どうやら千尋は自分に贈る菓子を作っているらしい。
「……こうすれば香ばしさが出る」
「すごい! 忍人さん、きっと喜んでくれるよ!」
無邪気にはしゃぐ声を耳にすると、勝手に頬が上気してくる。
「……今日のところは……見逃すか」
低い声でつぶやき、大炊殿の戸口の日向でスヤスヤと寝息をたてているサザキに目を移した。
「……護衛の役割をまったく果たしていないな」
木の枝と朴の葉で簡単な仕掛けを作ると、忍人は大炊殿を去った。
数分後、朴の葉から転げ落ちた松ぼっくりに頭を直撃されて、サザキは悲鳴を上げることになる。
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