ささやかな祝い
12月21日の午後遅く。
日が翳り始めた橿原宮の回廊を、千尋は足音を忍ばせながら歩いていた。
忍人の私室の前に立つと、送ってくれた風早に無言で礼を言い、扉をそっと押し開ける。
次の瞬間、真正面から見つめる忍人と目があって、思わず「キャッ」と声を上げた。
「ご、ごめんなさい。忍人さん、寝ているかと思ったので」
「よしてくれ、もう何カ月静養していると思っているんだ。今ではいつもどおりに起床して、一日を過ごしている」
心配そうな千尋の顔を見て、
「早朝の鍛錬は控えているが」
と付け加える。
「……よかった」
「武人としては歯がゆい限りだ」
扉を閉め、勧められたイスに座ると、千尋は抱えてきた籠の中身を取り出した。
果物や菓子、湯気をたてる茶などが、小さな卓の上に慎重に並べられる。
「簡単なものですけど、お祝いを用意してきたんです」
「祝い?」
「覚えていませんか? 去年、私がものすごく怒られたこと」
「………」
「怒ったことが多すぎてわからない?」
「正直に言えば、そのとおりだ」
ぷっと吹き出すと、千尋はおなかを抱えて笑った。
「笑いごとではないだろう」
「そ、そうですけど。本当にそうだなあって」
涙を浮かべて笑う千尋に、さすがの忍人も表情を緩める。
「去年の今ごろか……」
濃い色の瞳が、一瞬見開かれた。
「! 竹簡……?」
「はい」
去年、橿原宮攻略戦の直前に、忍人の誕生日を祝おうとした千尋。
物資も時間も兵力も、何もかもが足りずに逼迫していたあの日に、彼女が忍人に贈ったのは、皆が竹簡に記した未来への約束だった。
「……まだ一枚も使ってないですよね?」
「ああ。あの後すぐにこのざまだからな。櫃の中に入れてあるが」
「開けてもいいですか?」
千尋が部屋の隅に置かれた櫃の蓋を開くと、丁寧に布でくるまれた包みが入っていた。
「君の気遣いが……後からわかった。あのときはすまなかった」
「忍人さん」
一番上に置かれているということは、おそらくあの後何度となく忍人はこの布を開き、記されている言葉をたどったのだろう。
療養の日々、それが支えの一つとなったのならこれ以上うれしいことはない。
「じゃあ、私の竹簡を最初に使ってください」
千尋は、包みから取り出した一枚を差し出す。
記されている文字を見て、忍人は微笑んだ。
(来年の忍人さんのお誕生日を祝う)券。
「お誕生日おめでとうございます」
「……ありがとう」
一年前と同じ、暁天の星が光を取り戻した。
忍人好みの甘さを控えた菓子や果物。
風早特製の豆茶。
なごやかな会話が続くうち、灯火をともす必要があるほどに室内が暗くなってくる。
「あ、そろそろ風早が迎えに来ちゃう」
千尋は、卓の上の食器を籠の中に戻し始めた。
「長々と居座ってすみませんでした、忍人さん。疲れませんでしたか?」
「宮中の女官じゃあるまいし、なぜこれくらいで疲れる?」
「よかった。その……去年の約束がかなえられたことも含めて本当によかったです」
千尋が竹簡を籠に入れるのを見て、忍人は声にならないつぶやきをもらす。
「忍人さん?」
「いや、その……それは一度だけ使うものなのか」
「あ、普通はそうなんですが」
「聞いてみただけだ。気にしないでくれ」
照れたように目をそらした。
彼の横顔を見て、千尋は籠の中から細長い包みを取り出す。
「……あの、これ、よかったら受け取ってください」
「?」
「去年言ったでしょう? 戦のない世界では、誕生日にささやかなお祝いを渡すって」
「ああ、だがもう十分振る舞ってもらった」
「これもとってもささやかなものです。去年は風早に代筆してもらったから、今年は自分で書きました」
忍人が包みをほどくと、中から現れたのは少したどたどしい文字が書かれた竹簡。
(来年の忍人さんのお誕生日を祝う)券だった。
「本当は、何十枚つづりのこ~んなに太い竹簡を渡そうと思ってたんです。
でも、そんな風に未来を縛るんじゃなくて、毎年一枚ずつ、
次の年の約束をしていくほうがいいかなって思って」
「あ、もちろん使わなくてもいいんですよ!」と照れながら笑う千尋を、危うく抱きしめそうになったとき、扉が静かにノックされた。
「千尋、そろそろいいですか?」
「風早、お迎えありがとう!」
あわただしく部屋を後にする千尋を見送った後、ガランとした室内に戻った忍人は一人ため息をつく。
「……まいったな」
たった一枚の竹簡に書かれた言葉が、こんなに心を温かくするとは。
灯りをともしてから寝台に腰掛けると、忍人は千尋が懸命につづった文字をもう一度丹念にたどるのだった。
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