良薬は心に甘し ( 2 / 2 )
思わず滲みそうになる涙を隠そうと顔に腕を当てていると、幸鷹の声が降ってきた。
「花梨さん、お具合がよろしくないですか?」
花梨は慌てて両腕をどけ、彼を見上げる。
真摯な瞳が、まっすぐ自分を捉えている。
そこに映る自分の、なんとみっともないことか。
「ああ、まだ熱が高そうですね」
そういうと、幸鷹は花梨の額に乗せてあった布を取り桶で冷やす。
きつく絞られた布が、再び額に戻ってくる。
ひやりとしたその感触が、気持ちいい。
そして、それ以上に……。
桶の水を変えてもらいましょうと言って身を引こうとした幸鷹の手を、花梨は掴む。
「花梨さん?」
「あ……」
名を呼ばれて、自分が彼の手を握っていることにやっと気付き、慌ててその手を離した。
彼は驚いた表情をしていた。
まさか花梨から手を握られるとは思っていなかったようだ。
しかし、すぐにふっと優しく笑った。
「熱で朦朧とされてますか? 大丈夫ですか?」
花梨はこくこくと頷く。
「ああ、ご病気で気弱になられているのですね。でも大丈夫ですよ。
風邪の養生に大切なのは栄養と休養と保温ですからね、できることは精一杯させていただきますから、ご安心ください。部屋は暖めましたし、水分も用意してあります。
もうすぐ、紫姫が何か口にできる物をこちらに運んでくださると思うので、花梨さんはただ寝ていてくださればいいのですよ」
幸鷹はどこまでも優しく穏やかな笑顔だった。
「何か、欲しい物はありますか?」
花梨はその問いに、フルフルと首を横に振った。幸鷹はゆっくりと頷くと渡殿の方を振り返った。
「それにしても遅いですね、紫姫は……」
幸鷹は床に手を突くと、少し腰を浮かせた。
「少々、お待ち願えますか? 様子を見てきましょう」
けれど立ち上がりかけた幸鷹は、そのままその動きを止める。
「花梨さん……?」
彼女が幸鷹の着物の裾を握っていたから。
「どうされましたか?」
もう一度屈み花梨を覗きこんだ幸鷹は、思わずうっと息を飲む。
うるんだ瞳の花梨に、じっと見つめられて。
不謹慎にも、熱で紅潮した頬の色が艶めいて見える。
「か、花梨さん……」
そわそわと落ちつかない気分になって、幸鷹は再びふりかえった。
「その……大丈夫ですから、このまま待っていてください……」
とりあえず、花梨の前から離れようと立ち上がろうとした彼の手が、きゅっと握られた。
「いか……ないで……」
花梨がその手を掴んだのだ。
うるんだ瞳で見上げる花梨に、幸鷹の動きが止まる。
「行かないでください」
「しかし……」
「何にも要らないです……。ただ……」
「……ただ?」
「…………」
「ただ……なんですか?」
「……ただ、幸鷹さんが側にいてくれたらいい……」
「花梨さん……」
「……理屈なんて、何もないけど……このまま手を握っていてください……それだけでいいの……」
「……」
「……お願い……ここにいて……」
「……」
花梨は、何も答えない幸鷹を不安そうに見あげた。
「………ご、めん……なさい……。わがままを言って……私、迷惑をかけるばかりで……何もできなくて……」
そしてさらに言い募ろうとする花梨のその唇を、幸鷹がそっと人差指で押さえた。
「もう、おしゃべりはそのくらいにしてください……」
「でも……」
それでも口を開こうとすると、幸鷹は今度は左右に首を振った。
「あまりしゃべると疲れますよ……」
それから、にっこりと微笑んで見せた。
「その様に不安げな顔をしないでください」
そして、そっと彼女の手を取る。
「いいですよ、あなたがそうおっしゃるのなら、こうして手を握っていましょう……」
花梨の頬が、ぽっと赤く染まった。熱による紅潮とは別の紅が差す。
「ありがとうございます……」
そう小さな声で言う花梨の手を、幸鷹は優しく包み込むように握る。
「大丈夫ですよ、あなたが望むのなら、ずっとこうしていましょう。ご安心ください」
花梨はその言葉にこくりと頷いた。
それを見て、幸鷹も微笑む。
「さあ、もう黙って……。あまりお話になると、疲れてしまいますよ」
花梨はその言葉に素直に従う。
やがて、ほどなく、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
幸鷹は、安らかな彼女の寝顔を見ながら思う。
龍神に選ばれ京を救った彼女は、ただ人とは違いいつも明るく皆を導いていた。
流石は白龍の神子を務めあげただけの人物だと、感嘆と称賛の念が愛情とともにいつも心にあったが、こうしてみればまだ幼さも残るただの少女だ。
不安にならないわけがないのだ。
辛いことがないはずもないのだ。
幸鷹の手を握る力が、徐々に抜けてゆく。
しっかり眠りについたのであろう。
多分、今、手を離したところで彼女は気付かないだろう。
そして後は、よい典薬医に任せ、薬湯の手配をすべきだと、頭では思っていた。
けれど彼は彼女の手を離すことはしなかった。
―――何もいらない、ただ幸鷹さんに手を握っていて欲しい
彼女の言葉に、医学的根拠などないだろう。
しかし、今はその言葉に従いたかった。
今更ながら湧き起こった、彼女を守りたい彼女が愛おしいという思いが、彼をそうしてそこに留め続けさせた。
* * *
花梨が目を覚ました時、あたりはほんのり夕闇色に染まっていた。
一瞬、自分が今どこで何をしていたのか、思いだせなかった。
何もない天井を見て、それからふと横を向いて、一気に意識が覚醒した。
「幸……鷹さ……ん……」
「花梨さん、お目覚めですか?」
そう言って、自分を覗きこむ愛しい人の顔を見て、花梨は慌てて起き上がろうとした。
それを、幸鷹が制止する。
「まだ起き上がってはなりませんよ」
「でも私……あ……」
自分を褥に押しとどめた幸鷹の手が、そっと額を、そして首筋を触った。
「とりあえず、熱は下がったようですね。良かった……」
「え? あっ……」
花梨は自分でも額に手を置いてみようとして、やっと気付く。
「幸鷹さん……ずっと手を握っていてくださったんですか?」
「ええ……花梨さんが離さないでとおっしゃったんじゃないですか」
さらりとそう言ってにっこり微笑む幸鷹に、熱が下がり冷静さを取り戻した花梨は今さらながら自分の行動が恥ずかしくなった。
熱からの不安さと勢いだったとはいえ、ずっと手を握ってもらっていたのだと思うと、頬がかっと熱くなった。
これではまた熱が上がりそうだ。
花梨は慌てて握っていた手を離し、布団の中へと入れた。
「つ、疲れたでしょう? ごめんなさい」
「いいえ、そんなことはありませんよ……むしろ役得……」
「え?」
「いえ、何でもありません……」
幸鷹はこほんとひとつ咳払いする。
「もう少し、休まれた方がよいですが、その前にお着替えになられるべきですね……汗をかかれたでしょう? 紫姫を呼んで来ましょう」
「あ、はい……ありがとうございます」
「…………」
「え?」
「いえ……何でもありません。ただ……」
「ただ?」
「……ただ、あなたがとても愛おしいと……そう思ったのですよ」
「え?」
幸鷹はくすりと笑った。そして、きょとんとしている花梨に向かって極上の笑顔を残し、局を後にした。
花梨は彼の笑顔に心を奪われていたが、
「……!?……ええっええええええっ!?」
やがて言葉の意味を理解して、素っ頓狂な声を上げた。
それから、ごそごそと布団にもぐりこんだ。
顔を真っ赤に染めて……。
「ゆ、幸鷹さんったら……もぅぅぅぅっ!」
花梨の心臓は高鳴り、幸鷹の言うようにゆっくりもう一度休むことなど、しばしできそうにもなかった。
けれど、彼の言葉が、彼と言う人物がついていてくれることが、彼女にとって何よりの薬となったのは間違いなかった。
どんな高価な薬より、どんな最先端の医学より、愛情に勝る薬はない。
そんな、お話……。
|