贈る想い ( 1 / 2 )

 



「泉水殿」

四条の邸への道を辿っていた泉水は、突然呼びかけられて足を止めた。

声の方角から歩いてきたのは、検非違使別当、藤原幸鷹。

その後ろを、彼が乗ってきたらしい牛車が戻っていく。

「幸鷹殿、ごきげんよう。御車を……返してしまってよろしいのですか?」

心配そうな泉水に、幸鷹は笑いかけた。

「四条の邸はすぐそこですし、帰りは歩くつもりでおりますので。
泉水殿も四条に向かわれるのでしょう?」

「はい」とうなずく泉水の手には、とりどりの唐菓子を盛った籠があった。




幸鷹は目を細めてそれを眺める。

「神子殿がおっしゃっていました。泉水殿が素晴らしい贈り物を届けてくださると。
これも、喜んでいただけそうですね」

「す、素晴らしいなどと、お恥ずかしい。神子を少しでもお慰めできればと……。
わたくしごとき、ほかにお役に立つ術もございませんので」

微かに頬を染めてうつむく泉水は、それでもうれしそうだった。




幸鷹は微笑し、ともに歩き始める。

「……しかし、てっきり使いの者に託しておられるのだと思いましたが、ご自身でお届けになるのですか?」

「は、はい。どなたかの手を煩わせるのは申し訳ございませんし、何より神子の存在をあまり知られるわけには参りませんので」

「それは……そうですが」

幸鷹の脳裏に、花梨の言葉が甦る。

(いつも留守の間に届けられるから、お礼がなかなか言えなくて。
お使いの人に、お手紙を託したほうがいいんでしょうか?)




空を見上げると、日はまだ高い。

今ごろ花梨は、八葉の誰かと京を巡っている最中だろう。

「泉水殿……。もしかして、神子殿がお留守の時にわざわざ届けていらっしゃるのですか?」

ビクンと泉水の手が震え、籠を取り落としそうになった。

幸鷹が素早く下から支える。

「あ、す、すみません、幸鷹殿」

「いえ、私こそ唐突に失礼なことを伺って。申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げられた泉水は、しばらく逡巡した後、哀しげに微笑んだ。

「……いえ。幸鷹殿がおっしゃるとおりです。
わたくしは……直接贈り物をお渡しするのが怖いのです……」



* * *



「わたくしが多分5、6歳のころだったと思います。
庭に咲いた菖蒲があまりに美しかったので、何輪か摘んで母に持って行ったのです」

四条の邸へ続く道を少し大回りして、泉水と幸鷹は歩いていた。

「菖蒲……。というと、水無月のころでしょうか」

「え、ええ……」

幸鷹の言葉に、泉水はなぜか辛そうに目を伏せる。

それでも気を取り直すと、言葉を続けた。




「母を喜ばせたいと、わたくしはただそれだけを考えておりました。
ところが、花を見るなり母は顔色を変えて、わたくしを激しく責めたのです」

「いったいなぜ?」

「母は……庭の菖蒲が咲くのを楽しみにしていて、それを愛でる宴を開くつもりだったのです。
それを、わたくしが台無しにしたと。
花は野にあってこそ美しいのに、そのようなことすらわからないのかと。
わたくしはただただ泣いて謝ることしかできませんでした」

「しかし、泉水殿はほんの数輪摘まれただけでしょう? 
なぜ年端もいかない子供にそのような……!」

幸鷹は思わず色をなして反論した。

泉水は首を左右に振り、必死に否定する。

「いえ! いえ、すべてわたくしが悪いのです。
母が楽しみにしていた花を無惨にも摘み取って、目の前に差し出したのですから。
母の苦しみを思うと、今も胸が締め付けられます」

「……泉水殿」




やがて、泉水は胸に当てた手を静かに下ろした。

「そんな折も折、宮が……和仁様が母をお訪ねになられたのです。
簀子縁に控えて宮をお通しするとき、わたくしは息が止まるかと思いました。
なぜなら、宮はお付きの時朝殿に、腕一杯の菖蒲を抱えさせていらしたからです」

「!!」

「切り花をあのように厭った母に、あれを見せてはいけない! 
わたくしは時朝殿に追いすがり、必死で花を運ばないようお願いいたしました。
時朝殿は戸惑われ、すでに母の元を訪われている和仁様の指示を仰ぐからとおっしゃったのですが、騒ぎが耳に入ったのでしょう、和仁様と母が御簾をくぐって簀子縁に出てこられました」

一気にそこまで話した泉水は、衣の袖をギュッと握りしめる。




「……母は……その菖蒲を見て……呆然としました。
何もご存じない和仁様は、邸の庭に咲いていたのを摘んできたのだと、うれしそうに話されました。
きれいだろう?と、母を見上げて。
すると……母は涙を……。涙を流したのです。
和仁様を抱き締めて、『ありがとう』と頬ずりしながら」

「……な……?!」

泉水は目を閉じ、辛い思いを飲み込むようにしばらく沈黙した。

幸鷹も、先を促すわけにもいかず、黙ってその様子を見つめる。

「『宮がお生まれになったころ、ちょうどこの花が咲いていたのです。
だからわたくしにとって、菖蒲は何よりも大切な花。
それをお邸の庭からこんなにお持ちいただいて、本当にありがとうございます』。
母は宮にそう言いました。
そのときわたくしは……わたくしごときはきっと一生母上をお慰めすることなどできない。
物の数に入らぬどころか、いるだけで母上を哀しませてしまう不肖の子なのだと……確信いたしました。
ほんの数日しか生まれた日も変わらないというのに、母にとって菖蒲は宮の花、母の喜びは常に宮とともにあり、わたくしはあの方を苦しめることしかできない。
わたくしなどが母の子に生まれてしまったことを、心から申し訳なく思いました」

「お待ちください、泉水殿」

たまりかねて、幸鷹が口を開く。

「あなたはわずか5、6歳だったのでしょう? 
しかも、やっていることはあなたも和仁様もまったく変わらない。
お母上を喜ばせたくて、美しい花をお持ちした。なのにその違いは……! 
私は女六条宮様を存じ上げませんが、非は明らかにお母上にあります。
あなたが自分を責めるのはおかしい…!」




幸鷹の言葉を静かな眼差しで聞きながら、泉水は首を左右に振った。

「いえ……。やはりこれはわたくしの罪です。
母上を責めるのはどうかおやめください。
ただ、その出来事以降、わたくしは……物をお贈りするのが怖くなってしまったのです。
使いの者に託すのならば、先方は受け取られた後、お気に召さなければ擲つこともできましょう。
けれど、直接お渡しする場合は……」

微かに、泉水の唇が震えた。

幼いころの出来事が、彼をどれだけ深く傷つけたかがよくわかる。




「……泉水殿」

「申し訳ございません、幸鷹殿。埒もない話を長々とお聞かせして。
ですので……わたくしは神子がお帰りになられる前にこの菓子をお届けしたく……」

「泉水殿、大変恐縮ですが、どうか私にお知恵をお貸しいただけませんか?」

「……は?」




幸鷹の唐突な申し出に、泉水は目をしばたたかせた。

「実は私も、神子殿に何か贈り物をお持ちしたいと思っていたのです。
しかし、私が思いつくのは、筆や文箱や硯といった、いかにも『もっと学びなさい』と命じているようなものばかりで……」

「……はい…」

「ですからこれから東の市で、何かあの年頃の女性が喜ぶような物を泉水殿に見繕っていただきたいのです」

「え?」

「お忙しいところ本当に申し訳ございません。
けれど、あなた以外にこのようなことはお願いできず……」

「え? ゆ、幸鷹殿?!」

「幸い神子殿がお帰りになられるまで、時間はたっぷりございます。
どうか私を助けると思って、お力をお貸しください」

「え? あの!」

わずかばかりの抵抗もむなしく、泉水は検非違使別当に強引に連行されたのだった。