『BARAGA-鬼ki』ゆかりのスポット巡り


阿弥陀寺(福島県会津若松市)

新選組三番隊組長、斉藤一として知られる人物は、江戸の御家人、山口祐助と妻・マスの間に生まれました。
新選組に入隊したころには、山口姓を斉藤と改めています。
20歳にして副長助勤に抜擢され、さらに三番隊組長へと順調に出世。
御陵衛士が結成されたときは、新選組側のスパイとして潜入したとも言われています。

新選組隊士とともに会津に向かい、土方さんが療養中は指揮も取っていた彼は、会津に深く心を寄せ、土方さんがさらに北上を決めたときも、残ってともに戦う道を選びました。

戊辰戦争後も生き延びて東京で没しましたが、本人の希望により墓は会津に作られました。
墓碑が「藤田家之墓」となっているのは、維新後に藤田五郎と改名したためです。

 

斉藤さんのお墓がある阿弥陀寺の正面(上左)。
この阿弥陀寺には、戊辰戦争の会津側の戦死者1300人以上が葬られています。
寺内の説明によると、戦後、会津藩戦死者の遺骸にはさわることが許されず、翌年まで埋葬ができなかったとのこと。許可が下りた後も、埋葬地はこの寺と長命寺に限られました。

境内には鶴ヶ城の遺構、御三階(ごさんがい)も移築されています(上右)。
外観は三階建てですが、内部は四層になっていて、二階と三階の間に天井の低い部屋があり、密議に使われたと言われています。
玄関の唐破風は鶴ヶ城本丸御殿玄関の一部を配したもので、唯一現存する貴重なもの。
移築後は長く、戊辰戦争で消失した阿弥陀寺の本堂の代わりに使用されたそうです。

    

寺内の供養塔(上左)と鐘楼(上右)。
土方さんと別れた後、斉藤さんは二十余名の隊士を率いて城の西北にある如来堂に陣を構えます。
ここでの戦闘は圧倒的に不利なものでしたが、それでも首尾よく脱出した隊士たちは、新政府軍相手にゲリラ戦を展開しました。

会津藩降伏後、斉藤さんは会津藩士とともに、極寒の地斗南に移住、容保公の媒酌で藩士の娘と結婚しています。
後に上京して警視庁に入り、西南戦争にも出陣。東京教育博物館などに奉職した後、1915年に72歳で亡くなりました。

幕末の激動の時代を新選組隊士として生き、最後に会津人として眠ることを選んだ斉藤さん
その眠りがどうか安らかなものでありますように。

*『BARAGA-鬼ki』ポイント
土方さん斉藤さんの別れのシーン、最後で土方さんは手を差し出します。

斉藤「…なんですか?」
土方「西洋の挨拶でシェイクハンドっていうらしい」
斉藤「シェイクハンド?」
土方「ああ、新しいだろう?」
斉藤「新しいですね…」
土方「きっと帰ってくる…その時まで、新選組はお前に預ける…行け」

明るい声で、でも万感をこめて見つめあう二人がとても素晴らしかったです。