菜の花を透かして ( 2 / 2 )
サクサクサク。
軽やかな足音が遠くから聞こえる。
誰かが呼びに来たのかもしれない。
こんな自分を見られたくなくて、あかねは菜の花の陰でぎゅっと身を縮めた。
足音はしばらくあちこちをさまよい、やがて聞こえなくなった。
(ごめんなさい…)
心で謝りながら、ほっと安堵の息を吐く。
そのとき、濡れた頬に柔らかな布がそっと添えられた。
「!」
「……」
傍らの菜の花の中に、鷹通が佇んでいた。
「……鷹み……」
驚いて、声が途切れる。
鷹通は「話さなくていい」と言うように唇に指を立てた。
そして、あかねの横にゆっくりと腰を下ろす。
「……しばらく、おそばにいることをお許しください」
「……!……」
驚くあかねに構わず、視線を上に投げる。
眼前に広がるのは、あかねが一人で見ていた空。
「……こうして見る空は、大変美しいですね……」
鷹通は菜の花越しの青空を、眩しそうに見つめた。
「……え……」
美しい……?
つられて空を見上げる。
小鳥が数羽、にぎやかに鳴き交わしながら飛んでいった。
暖かな春風が背の高い花々を揺らしている。
地上に落ちる影も、同じリズムで動く。
涼やかな川のせせらぎ。
緑のむせかえるような香り。
日差しの暖かさ。
うららかで優しい「春」が、周囲を取り囲んでいた。
音も色も温度も香りも。
なのにそれまで、まったく「美しい」と感じなかったことに驚きを覚える。
「…神子殿…?」
「……どうして……?」
「はい…?」
「景色が……何だかさっきと違って見えて……」
「……ああ。だとしたら、きっとお一人ではないからでしょう」
「え……」
鷹通の顔を見ると、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「どんなに美しい風景でも、ともに分かち合う誰かがいなければ感動は半減してしまいます。
私も多分、一人でこの空を見上げたのだったら、今のように輝いては見えないでしょう。
神子殿のおそばにいるからこそ、値千金の一刻を味わえるのですね」
「…………」
鷹通とともに、あかねも再び空を見上げる。
さきほどとまったく変わらない風景。
なのに流れる雲が、真っ白に光って見える。
鳥のさえずりが、耳に心地いい。
かすかに触れあう肩先からは、鷹通のぬくもりが伝わってきた。
(そうか……何も話さないとしても、誰かと一緒にいることはこんなにも慰めになるんだ)
草の香りと、春の日差しを楽しむため、あかねは目を閉じた。
瞼を透かして明るい光が感じられる。
(目を閉じていても、光はそこにある。何も話さなくても、鷹通さんはそばにいてくれる)
急に全身の力が抜けて、激しい眠気が襲ってきた。
ずいぶん長いこと忘れていた、安らかな眠りへのいざない。
ことんとあかねの頭が落ちたのに、鷹通は気づいた。
* * *
ゴトゴトと身体を揺する振動が、目覚めを促す。
ぼんやりと目を開くと、詩紋が微笑んでいた。
「起きた? あかねちゃん」
「……あれ、私……」
「お疲れだったようなので、牛車を手配いたしました」
頭の上から鷹通の声がして、あかねはびっくりして見上げた。
眠るあかねを、後ろから支えていてくれたらしい。
「ほら、あかねはもう起きたんだから、いい加減手を離せよ、鷹通」
天真が面白くなさそうに言うと、
「失礼いたしました」
と、腕を引く。
途端に温もりが消えて、あかねは少し寂しい気持ちになった。
(ずっと温かかったのって鷹通さんのおかげだったんだ……)
「……あ、あれ? そういえばお昼ご飯、どうしたの?」
やっと眠る前のことを思い出し、あわてて尋ねた。
「お前の寝顔を肴にとっくに食っちまったよ」
「え?っ?!」
「嘘だよ、あかねちゃん。ちゃんと持って帰ってきたから、土御門で食べよう」
詩紋がにっこり笑う。
「天真殿がたくさん魚を釣ってくださいましたからね」
鷹通が言い添えると、
「誰かさんがあかねの添い寝してる間にな」
と、不機嫌そうに答えた。
「ごめんね、天真くん、お昼ご飯待たせちゃって。お腹すいたよね」
あかねは頭を下げて詫びる。
すると、天真が急にあわて出した。
「なっ!? 別にそれで怒ってるわけじゃねえよ!
ってか、お前はいいんだよ。ぐっすり寝るの久しぶりだろ?
顔色よくなったし、桂川まで行った甲斐、あったじゃねえか」
「本当に、あかねちゃん、表情が明るくなったみたい」
二人に言われて、あかねは照れながら笑った。
「うん。何か気持ちが楽になった。ありがとうね、天真くん、詩紋くん、鷹通さん」
「今は花の季節ですから、これからもときどき盛りの花を見に出かけましょう。
藤や石楠花、牡丹もきっと神子殿の慰めになると思います」
「はい!」
「おい、鷹通、今度はお前が釣り係な。もう抜け駆けはさせねえからな」
「でしたら今度は天真殿と私で、釣りの腕を競うのも面白いかもしれませんね」
「え?! 鷹通さんも釣りをするんですか?」
「はい」
「おもしれえ。絶対に負けねえぞ」
「天真先輩、それだと先輩も抜け駆けできないと思うけど……ま、いいか」
明るい笑い声が牛車の屋形から洩れ、道行く人々を驚かせた。
春のよく晴れた一日、土御門の庭での昼餉は、日が傾くまで楽しく続けられたという。
* * *
「あっ、本当に咲いてる! 今まで全然気づかなかった?」
「京より規模が小さいですからね。
こちらではありふれた光景なのかもしれません」
4月末の桂川の川辺。
鷹通と共に訪れたあかねは、堤防を下って河原に咲く菜の花の群れに近づいた。
背の高いレモン色の花々が、風に揺れて二人をいざなっている。
「こうして花だけ見ていると、京に戻ったみたいですね」
「そうですね。菜の花と川のせせらぎと日差しと…。
あの日あなたと見上げた空を思い出します」
「鷹通さん……」
あかねはつないだ手をギュッと握った。
「……その……大丈夫……ですか?」
「はい?」
突然の問いに、鷹通は不思議そうに目を瞠る。
「私……京に行って1カ月目くらいのとき……とてもつらかったから。
鷹通さん、大丈夫かなって」
「ああ」
鷹通はあかねの手を柔らかく握り返した。
「私は自分でここに来ることを選び、その願いを叶えたのです。
突然連れて来られた神子殿……あかねさんとは違いますよ」
「本当に?」
「はい」
あかねの顔に笑みが戻った。
やがて、二人は川辺に腰を下ろす。
風に揺れる菜の花越しに、そろって空を見上げた。
少しかすみがかかったような、美しい青空。
「……きれいですね。まるで空を菜の花のレースで縁どりしたみたい」
「れえす…?」
「あ、このハンカチの縁みたいな模様のことです」
「ああ、確かに似ていますね」
あのときよりずっと近い距離で。
二人肩を寄せ合って。
「そういえばあの日、友雅殿に『まだまだだ』とたしなめられたのですよ」
「え? 何がですか?」
「兄弟や父親でもあるまいし、神子殿が安心して傍で眠ると言うのは、男性として意識されていない証拠だと」
「な!? た、確かに友雅さんの傍では寝られないけど、それは意識してるんじゃなくて警戒してるんです!」
「なるほど、そう返事をすればよかったのですね」
「鷹通さん、それ、感心するところですか?」
「……すみません」
懐かしい京についての語らいは、楽の音のごとくにぎやかに続いた。
菜の花畑の中、春を心から楽しんで。
霞にけぶる空を、小鳥たちがピチュピチュと鳴き交わしながら飛んでいく。
二人にとっての新しい春が、動き出していた。
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