広島城(広島県広島市中区)
広島城を建てたのは、毛利元就の孫、輝元です。
戦国大名として中国地方を支配した毛利氏の足元を盤石なものとするため、輝元は当初、毛利氏のお膝元である郡山城のさらなる拡張を目指していました。
が、豊臣秀吉に大阪城を見せられて開眼!
「あんな田舎じゃだめだわ!」と言ったか言わないかはわかりませんが、瀬戸内の交通の要衝となる、太田川下流の最も広い洲(ここから広島の名がついたとも言われる)に築城を決意したのです。
以上、郡山の安芸高田市歴史民俗博物館の学芸員さんがちょっと悔しそうに解説してくれました(笑)。
1589年に着工、輝元はその2年後に入城しましたが、城が完成したのは1599年。
翌1600年に、関ヶ原で西軍の総大将を務めた毛利氏は敗退、周防・長門(現在の山口県)に転封となったため、完成したお城にはほとんど住めなかったようです。
元就は息子や孫たちに「天下を望むなかれ」と言い聞かせていたそうですから、それを守らなかった結果の没落……と、言えるのかもしれません。
親の言うことに耳を傾けるのは大切ですね。
この後、城は福島正則、浅野長晟と主を変え、明治維新まで浅野家による統治が続きます。
原爆で完全に破壊されるまでは、輝元が築いた城の特徴がよく残っていたそうで、見てみたかったな……と、思いました。
御門橋と表御門(上左)。
本丸の正面を守り、出撃の拠点となる馬出しの機能を持つ門とのことです。
戦後、1958年に天守閣が、1994年にこの表御門と平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が復元されました。
堀(上右)には城の別名である「鯉城」にふさわしくたくさんの鯉と、なぜかたくさんのカメが(笑)。
広島カープの「カープ」はこのお城の名前から来ているんですね。
城内にある広島護国神社(上左)。
原爆投下前は、旧広島市民球場の辺りにありましたが、1956年に現在の場所に移転。
今では中国地方で最も多くの初詣客が訪れる神社となっています。
天守閣のすぐそばに残されている(上右)のは、旧天守閣の礎石。
1958年に天守閣を再建する際、柱下の礎石を掘り起こしてそのまま移したのだそうです。
一段低く据えられている石は、今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示しているのだとか。
城内に基壇のみが残されている大本営跡(上)。
1894年の日清戦争の際、広島は前線基地となり、東京の大本営がこの場所に移されました。
明治天皇も戦争終結までの200日以上をこの地で過ごしたそうです。
その後、軍都としての発展を続けた広島で、広島城には軍事的に重要な施設が築かれました。
中国軍管区司令部地下通信室、陸軍幼年学校、歩兵第11連隊……。
原爆投下時、「新型爆弾により広島壊滅」の第一報を伝えたのは、学徒動員で通信室に配属されていた女子学生だったそうです。
広島城を案内してくれたタクシーの運転手さんの、「そうは言っても、戦争末期の広島に兵隊なんてたいしていなかったんですよ。みんな南方に出征しちゃってね。だから原爆で亡くなったのは民間人ばかり。必要だから落としたんじゃなく、落としてみたかったから落としたんじゃないですか」という言葉が忘れられません。
多くの歴史を背負いながら、広島城は今、復興のシンボルとして聳え立っています。