薫風渡る海 ( 3 / 3 )
「気分はどうだい? 国守殿」
「……あなたには迷惑をかけましたね……。
面目ない……」
夜になり、翡翠が幸鷹にあてがっている居室を訪ねると、沈んだ声が応えた。
衾と茵はきれいに片付けられ、幸鷹はひとり、円座(わろうだ)に座っている。
翡翠はその正面に座り込んだ。
「今夜は寝ないつもりかい?
赤い目で帰られては、『傷一つ付けない』という約束を違えてしまう」
「執務の都合で、寝ない日は珍しくはありません。
部下たちも慣れています」
気丈な口調とは裏腹に、幸鷹の姿は悄然としていた。
しばし沈黙した後、翡翠は口を開く。
「ああいうことはよくあるのかね?」
「ああいう……?」
不思議そうな顔で、幸鷹は問い返した。
「あれは私の不注意で……船から転落しただけですが」
「不注意? ひどく頭が痛そうに見えたが……」
「頭痛……ですか……? さあ、そんな覚えは……」
どうやら本当に覚えていないらしい幸鷹に、翡翠はもう一つの言葉を投げてみる。
「誕生日の祝いは」
「誕生……?」
幸鷹が、答えを探すようにまっすぐ翡翠を見つめた。
「それは何ですか?」
「……なるほど。
国守殿はなかなか面倒なものを抱えていらっしゃるようだ」
裾をさばいて立ち上がると、翡翠は部屋の板戸を開けた。
「明日は夜明けとともに船を出す。最後の航海を楽しみたまえ」
「翡翠?」
物問いたげな声が追いかけてきたが、翡翠は振り返らなかった。
* * *
「……合法的な水運業だけに励んでくれればいいものを……」
国衙の一室で、不在の間にたまった書類を次々と処理しながら、幸鷹は嘆息した。
結局、あの島にいた七日の間に、略奪行為を目にすることはなかった。
たまたまなのか、幸鷹に配慮してなのかはわからないが、内海を航海する商船の護衛をしたり、自ら商う品を運んだり、縄張りの海域を見回ったりと、至極まっとうな「海の民」の暮らしが営まれていた。
何より、何代も前から海を生活の場としている彼らに、「海を捨てて陸を耕せ」と命じることの無意味さをひしひしと感じた。
「重税を逃れるため、水軍に加わった者たちの帰農が終われば、ひとまずよしとすべきでしょうか……」
きらめく海原と水上を渡る爽やかな風。
海を捨てさせるのは、鳥から翼を奪うような行為なのかもしれない。
「こ、国守様~っ!!」
バタバタと足音がして、書記官の一人が部屋に飛び込んできた。
「何の騒ぎですか?」
書類を傍らによけると、幸鷹は立ち上がった。
「か、海賊どもが、讃岐の船を襲いました!」
「讃岐? 隣国の?」
国衙の回廊をたどり、厩へと急ぎながら幸鷹は尋ねる。
「善政を敷く国守様への配慮なのかもしれませんが、此度は帆を立てた船まで加わっていたとのことで……」
ピタリと足が止まった。
「帆を立てた船?」
「はい、それはそれは船足が速かったと」
「………」
幸鷹は頭を抱える。
(何も海賊行為に使わなくても……)
「そ、その上……」
「まだ何か?」
書記官はしばらくためらった後、幸鷹から目をそらしながら口を開いた。
「船の……帆に大書されていたと……」
「大書?」
「これは何って書いてあるんですか、お頭」
字を読めない部下の一人が、帆を見上げて翡翠に尋ねた。
伊予の泊からほど近い海岸際を、小型船は軽やかに帆走している。
「ああ、この帆の由来を示したのだよ」
「由来?」
「お頭!!」
物見の部下の声で、翡翠は海岸に目をやった。
行く手に張り出した崖の突端に、数騎を従えた幸鷹が馬に乗って待ちかまえている。
翡翠は帆を低く下ろして、船足を緩めさせた。
「翡翠!! いったい何のマネですか!!」
声が届く距離に来ると、幸鷹が叫んだ。
「やあ、国守殿、元気そうで何よりだ」
海に鍛えられた翡翠の声は、張り上げなくてもよく通る。
余裕の微笑みに神経を逆なでされ、幸鷹は重ねて叫んだ。
「讃岐の船を襲ったと……いえ、
それより、その帆はどういう意味なのですか!!」
高く張られた帆に大きく書かれた文字は、嫌でも目に入ってくる。
『国守殿之誕生祝』
「見たままだよ。私はこれが君からの祝いだと思ったのでね」
「祝?! 何の話ですか!?」
一瞬真顔になった後、翡翠はふっと笑った。
「そのうち君も思いだす。
技術は漁師たちには伝えるから安心したまえ」
片手を上げると、部下たちが帆を再びいっぱいに張った。
「お待ちなさい! いい加減略奪行為は……!!」
「君もこの船に乗りたくなったら言いたまえ。
いつでも歓迎するよ。なにせ生みの親なのだから」
「!!」
風をはらんだ帆は、小型船をあっという間に沖へと運び去る。
いつの間に練習したのか、見事な操船技術だった。
「……あの男……」
想像以上の出来に複雑な思いを抱きながら、幸鷹は海の彼方を見つめ続ける。
彼の後ろでは供の部下たちが、いったい何から質問すればいいのか困惑しながら佇んでいた。
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