心惹かれる人 ( 2 / 2 )
見送りを固辞する幸鷹に耳を貸さず、館の門から送り出すと、花梨はほっと一息ついた。
「…楽しみだなあ……物忌み」
そう、この何日もの間、幸鷹を物忌みに招くことこそが花梨の最大のミッションだった。
もちろん、いつものように文を紫姫に託せば、八葉は義務として必ずやってくる。
だが、そんな役目としての訪問ではなく、親しい友人を訪ねるように自ら望んで足を運んでほしい…。
花梨はそう願っていたのだ。
角を曲がる前に、幸鷹がふっと振り向いた気がした。
それだけで鼓動が跳ね上がる。
やがて、完全に姿が見えなくなったのを確認して、ようやくきびすを返した。
おかしな気持ちだとわれながら思う。
いろいろな行き違いはあったものの、今では八葉の誰もが身を挺して怨霊と戦い、花梨を助けてくれている。
花や菓子を届けてくれる泉水、香を手ほどきしてくれる彰紋、とろけるような甘い言葉を投げかける翡翠、勤めの合間に優しく微笑んでくれるようになった頼忠、妹にでも接するように気さくに話す勝真、友達感覚でつきあえるイサト、不器用だが、誰にも劣らず神子を守ろうとする泰継…。
しかし、その中にあっても幸鷹は特別だった。
まっすぐな眼差し、理知的な行動、穏やかで心温まる微笑み……。
眼鏡を押し上げる長い指にも、整った鼻梁にも、何もかもに花梨は見とれてしまう。
最初に出逢った八葉ということもあるが、たとえ彼に会うのが最後だったとしても……。
「神子様?」
気づくと、傍らで紫姫が不思議そうに花梨を見つめていた。
簀子縁の高欄に肘をついて、ずいぶんと長いこと考え込んでいたらしい。
「何か、お心を悩ませることでもございますか?」
少女の真剣な表情を見て、花梨は慌てた。
「ち、違うよ、紫姫! ぼーっとしてただけ! ごめんね、心配かけて」
言うそばから顔が赤くなるのがわかる。
(幸鷹さんのことを考えてたなんて言えないよ!)
「…そうですか。どうか神子様、ご心配事は何でもこの紫にご相談くださいね」
いまひとつ納得のいかない表情で、紫姫は下がっていった。
熱くなった頬に手を当てながら、花梨はひとりため息をつく。
「……私……どうしちゃったのかな…」
* * *
幸鷹は自宅への道を辿りながら、先ほどの花梨の涙を思い出していた。
自分で自分の涙に驚いていた少女。
彼女がどれだけ気を張って生きているかがわかって、幸鷹の胸は激しく痛んだ。
(私たちは、何という過酷な運命を強いているのか…)
初めて出逢ったとき、助けを申し出たのはほんの軽い親切心からだった。
この奇妙な言葉をしゃべる少女が、きちんと生家に戻れるまで面倒を見るのもいいだろうと。
ところが、彼女は本当に龍神が遣わした神子で、その小さな肩に重すぎるほどの使命を負っていた。
穢れに倒れ、怨霊に恐怖し、京の街の人々の冷たい目に耐えながら、それでも懸命に一歩ずつ前に進んでいく姿。
助けているつもりの自分が、逆に励まされたり、開眼させられることも多かった。
「確かに彼女は龍神の神子なのだ」と納得する一方で、普段の彼女が見せる、無邪気で明るく、脆い少女の一面こそを守りたいと、願う気持ちも強くなっていた。
(幸鷹さん!)
明るい笑顔で駆け寄ってくる花梨。
(私、幸鷹さんに笑ってもらえるとすごく安心するんです)
そう言って、まぶしく微笑む。
(いいえ、神子殿)
幸鷹は、想像の中の花梨に語りかける。
(気づくといつでもあなたを目で追い、会えないときにはあなたを想い、その笑顔に魅了されているのは私のほうです)
彼女が龍神の神子だから、自分が八葉だから、きっとこんな気持ちになるのだろう。
胸の中にわき上がる感情に気づくたび、幸鷹は自分にそう言い聞かせていた。
(私は使命を終えた神子殿を、元の世界に無事返さなければならない。彼女はそのために、幾多の苦難に立ち向かっているのだから)
そこまで考えて、幸鷹は足下に降り積もった紅葉に気づいた。
一葉を手に取り、眺める。
(気の流れが止まるのは困るけど、こんなにきれいな紅葉をずっと見られるのはうれしいです)
京をともに巡った際、花梨が口にした言葉。
(この都には、四季それぞれの美しさがあるのですよ。春の彩りもまた見事です)
幸鷹がそう言うと、
(春……。きれいなんでしょうね。幸鷹さんと一緒に、お花見をしてみたいな)
と、少し哀しそうに微笑んだ。
そんなときは来ないと知っているから。
(もし、神子殿がこちらに残られることになったら……)
幸鷹は、考えても詮無いことと知りながら、思いを廻らす。
(蕗の薹が芽吹く早春、お手を取って野辺を歩くでしょう。やがて、雪解け水が作るせせらぎの中に、春を告げる生命が息づき、梅から椿、山吹、桜、藤へと、鮮やかな春が京を彩る……)
ふんわりと落ちてくる花びらを手のひらに受けて、はしゃぐ花梨の姿が目に浮かぶ。
(神子殿……。いえ、花梨殿……。どうかこれからの季節を、ずっと共に…)
「別当殿、お帰りなさいませ。巡察から戻った検非違使が、いくつかご報告したいと申して、控えております」
いきなり現実に戻されて、幸鷹ははっと我に返った。
すでに自邸の門の前に差し掛かっている。
「そうか、すぐに会おう。奥の間に通せ」
「は!」
きびきびと指示を出しながら、幸鷹はついさっきまで浸っていた想像を打ち消した。
(あの方は元の世界に帰られるのだ。お帰しするのが私の使命なのだ。それを決して忘れては……ならないのだ)
彼が足早に去った後には、一枚の紅葉が落ちていた。
幸鷹が突然、花梨に触れられなくなるまで、あとほんの数日しかなかった。
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