兆し
「……ったく、どうして俺がこんな目に……」
そろそろ夕刻だというのに、相変わらずギラギラ輝く太陽の下、譲はぼやきながら歩いていた。
駅から続く坂を上り、切通の道を自宅へと急ぐ。
したたり落ちる汗を拭きたくても、残念ながら両手はふさがっていた。
「いったい何の罰ゲー……」
「譲く~ん!」
突然後ろから声を掛けられて、譲は抱えた荷物を落としそうになる。
あわてて態勢を整えているうち、小走りで追いかけてきた望美が横に並んだ。
「うわ~、どうしたの、その大きなスイカ! 持つの手伝おうか?」
「とんでもないです! 先輩にこんな重い物……!」
「じゃ、カバン貸して。あと、汗拭いてもいい?」
「え、でも」
望美は譲が肩から掛けていたショルダーバッグを器用に抜き取ると、自分の肩に掛けた。
そして、持っていたハンドタオルで譲の汗を拭う。
「家までもう少しだからがんばってね」
「……ありがとうございます」
思いもかけない幸運に、譲の頬は鮮やかに染まった。
「でも、ずいぶん大きなのを買ったんだね」
濃い色の大玉スイカをまじまじと眺めながら望美が言う。
「買ったんじゃないんです! さっき商店会の建物の前を通ったら、いきなり渡されたんです。
兄さんが福引で当てたらしくて」
「え~、すごい~! 相変わらずクジ運いいね、将臣くん」
「当てるのは勝手ですけど、俺に運ばせるのはおかしいでしょう?」
「きっとバイトに行く途中だったんじゃない? にしても、メールくらいくれればいいのに」
「そういう細かいフォローは、あの人には期待していませんよ」
譲は大きなため息をつきながら、それでもこの苦行が望美と話すきっかけになったことを密かに喜んでいた。
(……だからって兄さんに感謝したりはしないけど!)
譲の代わりに有川家の門を開き、鍵を開けてドアを開くと、望美はそのまま自宅に帰ろうとした。
「あ、先輩、待ってください。今、これを切りますから、持って行ってください」
「え? 将臣くんが帰ってくるまで待たなくていいの?」
いったん玄関にスイカを下ろすと、譲は大きく息を吐いた。
「こんなに大きいスイカ、丸のままじゃ冷蔵庫に入りませんよ。
それに、俺に運ばせた時点で所有権は移転したとみなします」
「そうなんだ……」
「冗談です。これ、かなり高級なスイカらしいんですよ。
丸のまま置いといたら、兄さんがスイカ割りに使いかねないでしょう?」
「あ! 絶対使う! 高いのにもったいないよね」
大きくうなずいて同意する望美の姿に、譲は思わず笑みを浮かべる。
「そういうわけで、リビングへどうぞ、先輩」
* * *
二階で手早く着替えた譲が階下に下りてくると、望美がじーっとスイカを見つめていた。
幼なじみの勘が働き、一筋額に冷たい汗が流れる。
「……先輩?」
「桃太郎……」
「いえ、それはトマトの品種で……」
「桃太郎のおばあさんってこんな気持ちだったのかな」
「はい?」
「おじいさんが大きな桃を拾って帰ってきたとき、『よし、私がきれいに切ってあげましょう!』って腕まくりしたのかなって」
「ど、どうでしょう。そんなにアグレッシブだったかどうかはわかりませんが……」
そこまで言って、譲はため息をついた。
「……切りたいんですね」
「お願い、譲くん! こんなに見事なスイカ切るチャンスなんてめったにないもん!」
「先輩はお願いすれば俺が何でも聞くと思っているのかもしれませんが……」
包丁は危ないし、望美が使い慣れているとも思えないし……と続けようとして、こちらをまっすぐに見つめる大きな瞳と視線がぶつかった。
これまで勝てたためしのない勝負。
もう一度大きくため息をつく。
「……まったく、仕方ないな」
「わ~い!!」
「うまく切れないようなら、即刻バトンタッチですからね。無理するとケガしかねないですから」
「OK! 一撃で仕留めるよ!」
「いや、必要以上に気合を入れる必要はありませんから!」
包丁を渡されてまな板の前に立った望美は、深呼吸して息を整えると、譲ににっこり微笑んだ。
「じゃあ、いきます」
「くれぐれも気をつけて」
真剣な表情でスイカの表皮に刃を入れると、グイッと切り下ろす。
が、思ったよりも抵抗があったらしい。
「!」
「先輩、やっぱり俺が」
「大丈夫」
集中するためか、目を閉じて手に力をこめた。
「危な」
目を開けるように言おうとした譲の目に、不思議な光景が映った。
ほのかに光るベールのようなものが望美の体から湧き上がり、彼女を包み込んだのだ。
「?!」
ほんの一瞬。
望美は光の粒子に覆われたように見えた。
ドンッという音と共に、スイカが真っ二つに割れる。
「やった~!」
望美の声に我に返ったとき、光は跡形もなく消えていた。
「ね、譲くん、うまく切れたでしょ?」
「え……ええ……」
「ほら、見て見て! 見事な切り口! これなら桃太郎の桃だって大丈夫だよ」
「お前の切り方じゃ、中の桃太郎まで真っ二つだろうが」
そう言いながらリビングのドアを開けて入ってきたのは、将臣だった。
「将臣くん!」
「兄さん!」
「あ~あ、せっかくのホールスイカを思いっきり切っちまって。それじゃスイカ割りできねえじゃねえか」
将臣の言葉に、望美と譲は顔を見合わせた。
そして、プッと吹き出す。
「譲くん、大当たり!」
「兄さん、こんな高級スイカでスイカ割りしたら罰が当たるよ。
だいたい、こんなに早く帰ってくるなら、自分で運んでくればいいじゃないか」
「何言ってるんだ。それはお前の誕生日プレゼント! だ~からもらった奴が運ぶべきだろ」
「「え?」」
譲と望美は同時にリビングの日めくりカレンダーを見た。
8月8日。
譲の誕生日は7月17日。
「どこが誕生日なんだよ! 兄さんの誕生日のほうがよっぽど近いじゃないか!」
「将臣くん、アバウトすぎ!」
「しょうがねえだろ、商店会の福引がこのタイミングなんだから!」
まったくこの人は、スイカが当たらなかったら俺に残念賞のポケットティッシュを渡すつもりだったんだろうか。
礼を言うべきか文句を言うべきか譲が迷っていると、望美が先に口を開いた。
「あれ? 将臣くん、よく福引券ためられたね。そんなに近所で買い物してたっけ?」
「お、いいところに気づいたな。全然足りなくて、バイト先のカフェでぼやいたら女子たちがたくさん持ってきてくれたんだよ。で、どうせだから『有川譲誕生日プレゼント用福引券入れ』っていう箱を備え付けて……」
「ちょっ……!? 何勝手にやってるんだ?!」
焦りまくる譲の横で、望美は感心したように腕を組んだ。
「はあ~、やっぱり将臣くんって、お金を使わずにサバイバルする能力、すごいよね」
「おう!」
「うちもお母さんが福引券ためてるから、将臣くんの誕生日プレゼントはそれで当てようかな」
「やめろ、お前じゃ絶対ポケットティッシュだ」
「じゃあ、俺は箱ティッシュ買ってやるよ」
「ティッシュでそろえるな!」
わあわあ言っているうちに、譲は望美に渡すスイカを包み終わった。
「やっぱり重いですから、俺が家まで持っていきますよ」
「私なら大丈夫だよ?」
「先輩にはさっき手伝ってもらったから」
そう言いながら、譲は一足先に玄関に向かう。
後を追おうとして、ふと足を止め、望美は将臣を振り返った。
「そういえば将臣くん、キーホルダーに鈴付けてる?」
「鈴? いや」
「そっか。さっき鈴の音が聞こえた気がするんだけど」
「自転車のベルかなんかじゃないのか」
「ああ、そうかも……」
「先輩、行きますよ」
「は~い!」
譲の声に、スリッパをパタパタと鳴らしながら望美は走っていった。
それは何の変哲もない、いつもの夏の日の風景。
これからも続くはずの、平凡な一日だった。
* * *
同じころ。
深い深い闇の中、時の流れから取り残された空間で、かすかに動くものがあった。
ほのかな光がゆっくりと灯り、やがて辺りを照らし始める。
「……神子……?」
眠りから覚めた幼子のような、小さくあどけない声。
静かに、確実に、何かが始まろうとしていた……。
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