帰還前夜 ( 1 / 2 )

 



「神子殿」

「幸鷹さん……」

まぶしく輝く天から、愛おしい少女が舞い降りてくる。

龍神から彼女を取り戻した幸鷹は、万感の想いを込めて華奢な身体を抱きしめた。

「もう決して離しません、神子殿」

「幸鷹さん、私も、私もずっとそばに……わた……あれ?」

桜色に染めた頬を寄せ、囁き返した花梨は、小さな手のひらを幸鷹の額に滑らせた。

「……神子殿……?」

「ゆ、幸鷹さん、もしかして……」

突然、ゴチンと音が出る勢いで幸鷹の額に自分の額をぶつける。

「熱! すごい熱があるじゃないですか!!」

「……はい……?」



(もしかすると今日の決戦で、命を落とすかもしれない)

そう考えた幸鷹が、徹夜に徹夜を重ねて完ぺきな引き継ぎ書を作ったツケが、一気に回ってきたのだった。

京に平和は戻ったものの、以後数日間にわたり検非違使別当兼中納言、藤原幸鷹は療養を余儀なくされる。

しかも、場所は自邸ではなく……。



* * *



「寒くないですか? 薬湯、ちゃんと飲みましたよね?」

気づかわし気な声に、幸鷹は重い瞼を上げた。

彼の目に入らない位置に灯された灯りが、辺りをぼんやりと照らしている。



病に伏せる幸鷹の寝所は、母屋の中央に据えた御帳台ではなく、塗籠の中に設えられていた。

「いくら几帳で囲んでも、母屋は寒いから」という花梨の意見が聞き入れられたのである。

青白い額に浮かんだ汗を拭いながら、花梨は、ずれた衾を掛け直した。



本来、夫婦でもない男女が、このような密閉空間で二人きりで会うのは大いにはばかられることなのだが、目下高熱を発している幸鷹にそれを判断する余裕はない。

そもそも彼が担ぎ込まれたのは、自邸ではなく、四条の尼の邸。

親戚筋ではあるものの、これ自体も異例なことだった。

「京を救った龍神の神子の希望は何でも叶えるように」との、院と帝双方からの命がすべての異論を封じていた。

もっとも花梨は、それがどれほど異例なことか、まったく気づいてはいなかったが。



「……神子……殿……?」

「苦しいですか? すぐに手ぬぐいを換えますからね。お水、飲みますか?」

幸鷹がかすかにうなずくと、花梨は彼の頭をそっと膝に乗せ、土器(かわらけ)に入れた水を唇に当てた。

数口飲むとすぐに目を閉じ、そのまま意識を失ってしまう。

花梨は角盥の中から手ぬぐいを取り出すと、軽く絞って幸鷹の額の上の物と取り替えた。

「……早く治ってくださいね……」

祈るようにつぶやき、熱で火照る頬に唇を落とした。



* * *



「なるほど。そうやって別当殿はまんまと婿に入り込んだというわけだね」

「な、何を言っているのですか、あなたは!!」

花梨が厨から膳を運んで来ると、塗籠の中からよく通る笑い声が聞こえた。

「……翡翠さん……?」

戸が開け放たれ、明るい光が差し込む寝所を覗くと、幸鷹の傍らに長い手足をもてあまし気味な翡翠が座っていた。



「やあ、かわいい人。ようやく花の顔(かんばせ)を見せてくれたね。
この男に君を独占させるのは、そろそろ終わりにしてくれまいか」

「ですからそういう人聞きの悪い言い方は……!」

花梨はうれしそうに笑うと、膳を抱えたまま二人のそばに座る。

「やっぱり幸鷹さんは、翡翠さんがいると元気になりますね」

「神子殿、これは元気になっているわけでは」

「おやおや、別当殿をここまで快復させたのは神子殿の功績だろう? どうやらそれも彼のためのようだね」

翡翠が膳を指差すと、「あ」と花梨は声を上げた。



「まだ試作だからちゃんとおいしいかどうかわからないんです。
幸鷹さんがまた具合悪くなっちゃったらどうしようって、ちょっと悩んでたんで……」

「ならば私がいただこうか?」

「翡翠殿、結構です。神子殿は私のために作ってくださったのですから」

「う~ん、でも、病人で人体実験するのは気が引けるなあ~」

「人体じっ……」

「卵と牛乳……それに蜂蜜といったところかな? 確かに滋養はつきそうだ」

花梨と幸鷹がためらっている間に、翡翠はちゃっかり試食を終えていた。

「翡翠殿! 陸の上でまで海賊行為はお控えください!」

花梨は思わず吹き出す。

幸鷹がこの邸に来てから、すでに4日がたっていた。



「……これは、プディング……ですか?」

風のように翡翠が去った後、茶碗を手にした幸鷹は尋ねた。

「あ、はい。プリンです。蒸す火加減が難しくて、ちょっとモソモソしてるかも……」

「懐かしい味です。そういえば子どものころ、熱を出すと母が作ってくれましたね」

目に優しい光を宿す彼の横顔を見ながら、花梨は言葉を継いだ。

「風邪の定番のバナナとか、アイスクリームはさすがに用意できないから、できる範囲での『精一杯』です。
もう何回かチャレンジすれば、もっとおいしくできると思いますよ」

「神子殿、ありがとうございます。しかし、私もいつまでも寝付いてはいられません。
翡翠殿が言っていたように、すでに困った事態になっているようですし……」

「え?」



茶碗を膳に戻すと、幸鷹は姿勢を正して花梨を正面から見つめた。

「このままなら、私はあなたを妻として娶ることになるのです」

「…………?」

「将来的なことではありません。今日、明日にでも、です」

「……?! ええええええっっ?!?」



* * *

平安期の結婚

男性が女性の元に通う「妻問婚」が一般的。

三日続けて通い、最後の夜に餅を食べる「三日餅(みかのもちひ)」の儀式や、結婚を周囲に公にする「露顕(ところあらわし)」の儀を経て婚姻が成立する。

* * *




「ちょ、ちょっと待ってください! 
じゃあ、あのとき倒れたのがほかの八葉で、その人をここに運び込んでも同じことになったんですか?!」

青ざめた花梨は、思わず幸鷹の着物の袖をつかんで尋ねた。

「もちろんです。もっとも皆は、あなたが私の腕の中に戻ってきたのを見て、この邸に運ぶことを許したのだと思いますが……」

「そ、そうなんだ……」

幸鷹は、花梨の手が震えていることに気づく。

「神子殿……?」

「よ、よかった。幸鷹さんが倒れたのはちっともよくないけど……幸鷹さんでよかった……」

「……」



冷たくなった花梨の手を両手で包み込むと、幸鷹は口を開いた。

「神子殿、あなたは元の世界に戻られる方です。
こちらの世界のしきたりに過剰に縛られる必要はありません。
ただ、申し訳ありませんが今回は、あなたが私の妻となり、共に異世界に帰った……という形を取るのが最もわかりやすく、あなたの名誉を守ることにもなると思います。
ですので、儀式を形式的に行うことだけはお許しくださいますか」

「儀式……?」

不安そうに見つめる花梨を安心させるように微笑む。

「尼君と相談する必要がありますが、ごく内輪の宴を行うだけで済むと思います。
そこにご出席いただければ、ほかにお手を煩わせることはありません」



だが、花梨の表情は明るくならなかった。

しばらくうつむいた後、ぽつりとつぶやく。

「……幸鷹さんはいいんですか? 私なんかを」

「神子殿?」

「その、形式的だとしても、お、お嫁さんにしちゃって……」

「神子殿」

次の瞬間、花梨は侍従の香りの中にいた。

幸鷹が両腕を広げ、彼女を抱きしめていたのだ。



「あなたをもう決して離さないと、あのときお伝えしたはずです」

「で、でも、結婚ですよ?!」

「残念ながら、形式的な、です。
神子殿、わかっていただきたいのですが、この事態に気づいてから私はずっと、『約束を反故にしてあなたをこの世界にとどめ、このまま本当の妻にしてしまう』という誘惑と戦い続けているのですよ」

「そ、そんな……!」

腕の中で、少女がぱあっと頬を染める。

その愛らしさに、幸鷹は思わず彼女をさらに引き寄せた。

「そのようにかわいらしい顔をされると、せっかくの決意がまた揺らぎそうです」

「幸鷹さん……」

熱を帯びたばら色の頬を掌で包み込み、軽く上を向かせる。

花梨は目を丸くして、幸鷹を見つめた。



互いの唇が触れ合う直前。

「あ」

声を発した花梨は、なぜか突然ぐいっと背筋を伸ばした。

「!? 神子殿……?!」

「よかった! すっかり平熱に戻りましたね!」

「……え……?」



愛しい少女は幸鷹の額に額をくっつけ、ニコニコと笑っていた。

「ぶり返したら大変ですから、もう無理しちゃダメですよ、幸鷹さん」

「……あ、はい……」

美しく清らかな龍神の神子の笑みに、なぜか打ち据えられたような気持ちになって幸鷹は素直にうなずく。



(そうだ、この方はいろいろと……鈍いのだった……)

と、心の中でつぶやきながら、名残惜しげに抱擁を解くのだった。