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唐鋤星 ( 2 / 2 )

 



「遅くなりました!」

玄関のドアを開いて飛び込んできた幸鷹を、幸鷹の母は腕を組んで、片眉を上げて迎えた。

「幸鷹、主役が遅刻してどうするの? 花梨ちゃんはとっくに着いているわよ」

「すみません、研究室をどうしても出られなくて。花梨さんは?」

「いつまでもリビングで待たせておくのはかわいそうだから、あなたの部屋に通しておいたわ。着替えたら二人で下りてきなさい」

「ありがとうございます」

言葉を最後まで聞かずに階段を駆け上がる息子の後姿を、幸鷹の母は苦笑しながら見送った。




「花梨さ…!」

自室のドアを開けた幸鷹は、一瞬足を止めた。

すっかり日が落ちて暗くなった室内の、明かりは消えていて人影もない。

落ち着いて部屋の中を見渡すと、ベランダに通じるガラス戸がわずかに開いていた。

静かに戸を押し開くと、ベランダの端で夜空を見上げる花梨の姿があった。

夢中になって星を見ている。




「……そのようなところで、寒くないのですか?」

幸鷹の声に、花梨は勢いよく振り向いた。

「幸鷹さん! お帰りなさい!」

「遅くなって申し訳ありませんでした。なかなか研究室を抜けられず、お待たせいたしました。……星を眺めていたのですか」

「はい」

花梨の隣に立ち、幸鷹も夜空を見上げる。

「今日は雲が少ないですから、よく見えますね」

「はい。それでもやっぱり月も星も京ほどきれいには見えなくて」

「それは……大気の澄み方が違いますから。もちろん、地上の明かりの多さも」

「わかっているんですけど、時々あの夜空が懐かしくなっちゃって」

「………」




しばらく無言で星を眺めた後、花梨が幸鷹を見た。

「あの……幸鷹さん。前にもこんなこと、ありましたよね」

「……唐鋤星のことを話したときですね」

「あ、やっぱり覚えていました?」

花梨がうれしそうに笑う。

幸鷹は微笑み返すと、花梨の背中にゆっくりと腕を回し、コートの中に包み込むように抱き寄せた。

「…!!」

「……本当はあの時も、こうして差し上げたかったのです。あなたが寒さに凍えないように」

「そ、そうだったんですか?」

花梨は目を丸くして幸鷹を見つめた。




「……意外ですか?」

「はい。だって、幸鷹さん、いつも真面目で固くて、そんなこと絶対にしそうになかったから」

「今も昔も私は真面目にあなたをお慕いしていますよ。もっともあのころは、自分がどうしてそんな気持ちになるのか……なぜあなたを抱き寄せたいと思うのか、いまひとつわかりませんでしたが」

苦笑を浮かべる幸鷹を見て、花梨も頬を染める。

「私も……理由はわからないけど、幸鷹さんとお話しするのが大好きでした。真面目で固くて、やさしくて、勉強熱心で、いつでも私を導いてくれて……。ううん、そんな細かいことより、いつもそばにいたいってずっと思っていました」

「花梨さん……」

花梨を抱きしめる腕に、自然と力がこもる。

「あらためて、ここであなたとともにいられる運命を選んでよかったと、心から思います」

「幸鷹さん……」




「幸鷹~!! そろそろ下りていらっしゃい~!」

階下から、母の声が聞こえた。




大きなため息をつくと、幸鷹は身体を離し、花梨を室内へと導く。

「残念ながらタイムアップのようです。私は着替えるので、先に下りていていただけますか」

「はい。あ、でも、皆さんより先に言っていいですか?」

「え?」

花梨は背筋を伸ばすと、まっすぐに幸鷹を見つめる。

「幸鷹さん、お誕生日おめでとうございます。この日を一緒にお祝いできて、とてもとてもうれしいです。できればこれからも、ずっと幸鷹さんのお誕生日をお祝いさせてください」

「……!」

たまらず花梨を抱きしめた幸鷹は、母の催促の声がもう一度響くまで、返答を言葉ではなく行動で示した。




「……あなたに、もう一度触れられるようになってよかった」

「幸鷹さん……」




「幸鷹~! ドアを開けるわよ~!!」




ついに部屋のすぐ外で声がしたので、幸鷹と花梨はあわてて身を離した。

「今、行きます!」

「お、お待たせしてすみません!」

赤い顔をして部屋から飛び出てきた花梨を見送ると、幸鷹の母はようやく着替え始めた息子に向かい、釘を刺した。

「高校生のお嬢さんですからね。ちゃんと婚約するまではけじめをつけなさい」

「言われずとも承知しています」

「あちらの世界に残っていたら、とっくに奥さんにしていたんでしょうけどね」

「それではお母さんにもう一度会えなかったでしょう?」

「………」

「花梨さんがそばにいてくれるのはもちろん、ここで8年ぶりに家族と誕生日を迎えられることも、私は心から喜んでいるのです。本当にとても……感謝しています、私をずっと待っていてくれた家族に」

「………当然でしょう。家族ですもの」

「では下まで、エスコートさせてくださいますか、お母さん」

「本当に……大きくなっちゃって……」

目を赤くした母の手を取り、幸鷹はゆっくりと階段を下った。




この日のために、都合をつけて集まってくれた兄姉。

ようやく明るい笑顔を見せるようになった両親。

そして、ここに再び戻ることを決意させてくれた愛しい少女。

リビングの扉を開きながら、幸鷹はこの世界で始まる新しい人生の門出に、胸を高鳴らせていた。




 

 
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