色づく季節 ( 1 / 2 )

 



「秋風……か」

天鳥船の堅庭に立つ忍人は、頬を撫でる風に気づいてつぶやいた。

ついこの間まで焼けつくような日差しで照りつけていた太陽は、高くなった空にいつの間にか行儀よく収まっている。

衰えることなどないと思っていた熱が、澄んだ光へと変わっていた。

「クシュン!」

案の定、露台に立つ千尋が小さいくしゃみをする。

「…………」

右、左と見回してみても、こういうときに気を利かせそうな人間の姿は無かった。

そもそもほかに護衛がいないから自分が千尋についてきたのだ。

ひとつ息をつくと、忍人は歩き出した。




(くしゃみ、聞こえちゃったかなあ……)

千尋は無意識に肩をすくめる。

聞こえていたら忍人のことだ、すぐに部屋に戻れと言うだろう。

だが今はもうしばらく、ここで地上を眺めていたかった。

多大な犠牲を出した出雲での禍日神との戦い、失われた命、大きく変わった戦局。

自分が勝ち取り、守ろうとしているものをしっかりと見据えながら、これからのことを考えたかった。




不意に、背中と肩が温もりに包まれる。

「!?」

濃藍の上着。

忍人が脱いで、千尋に着せかけていた。

「おしひ……!?」

「…………」

彼は無言で背を向けると、そのまま堅庭の中央へ戻っていく。

「あ、あの、忍人さん……?」

「君の思索を邪魔するつもりはない。だが、風邪をひかれては迷惑だ」

「……!」




大股に庭を横切ると、忍人は四阿(あずまや)の陰に入ってしまった。

多分、彼なりの気遣い。

短く切ったばかりの金色の髪が、濃い色の上着にキラキラと映えた。

「…………」

千尋は自分の髪を、指で梳(くしけず)る。

髪ならば、どんなに短く切ってもいつかは伸びる。

けれど、失われた命は二度と取り戻せない。

思いは、どんどんと深いところに下りていき、一筋、二筋、頬を涙がつたった。




「戦場では本当に命を落とすからだ」

千尋が不在だった五年間、嫌というほど人の死を見てきた忍人。

出雲で彼の言葉を聞いた時、千尋はその本当の重さをわかってはいなかった。

自分を慕い、高千穂から、筑紫から付いてきてくれた兵たち、狗奴や日向の一族……つい先ほどまで、言葉を交わし、笑顔を見せていた仲間が次々と失われていく。

無力で、ただそれを見ていることしかできなかった自分。

肩が大きく震え、堪えても堪えても、悲鳴のような嗚咽が洩れる。




こんなに空が青く、空気が澄み渡っているのに。

人の世はなぜ乱れ、血で血を洗う争いは続くのだろう?

自分はいたずらに闘いを生み出し、長引かせているだけではないのか?

中つ国の再興は、本当に民のためになるのか?

誰も答えてくれない無数の問いを虚空に放ちながら、千尋は涙を流し続けた。



* * *



「……気は済んだか」

「すみません、長い時間お待たせして……」

ようやく露台を離れた千尋は、恥ずかしそうに忍人に頭を下げた。

「それは構わん。俺の任務だ。だが……」

突然、忍人が頬に触れる。

千尋は驚いて目を見開いた。

「このまま中に戻っては、皆が心配する。そこの泉で顔を洗ったほうがいい」

彼は、四阿の傍らで湧き出す泉を指差した。




「そ、そんなにひどいですか?」

「……顔が腫れている。目もまっ赤だ」

「すみません……」

千尋は、赤くなってうつむいた。

すごすごと泉の前に行き、顔に水をかけ始める。

忍人は腕を組んでその様子を見つめていた。




しばらく、水音だけが堅庭に響く。




「……どれだけ後悔しても、たいていのものは取り戻すことができない」




静かな、しかし鋭い言葉に、千尋の手が止まった。

ひんやりとした風が、水に濡れた頬をかすめていく。




「過ちを悔い、同じ失敗を繰り返さないこと。今いる場所で立ち止まってしまわないこと。死んでいった者たちの夢や希望を受け継ぎ、いつか叶えること……。
生き残った者にできるのは、それくらいだ」




静かに、教え諭すような口調。




「嘆き、悲しみ、悼む時間があるなら、その分、前へと進む。払われた犠牲を無駄にしないよう、少しでも事態を好転させる。
還らない人間の骸(むくろ)にすがるより、生き延びた者のため、一握の米を、麦を手に入れる」




最後の言葉が、なぜか深く胸に突き刺さった。

見たことがないはずの光景が脳裏をよぎる。

思わず忍人の顔を凝視した。




「……私……そんな自信……」

「今はなくてもいい。だが、そういう事態に陥った時、思い出してくれ」

「!!」




不吉ささえ感じさせる、冬の湖のように静かな瞳。

気づくと、千尋の目からまた透明な雫が零れ落ちていた。




「……じゃあ、私はいったいいつ泣けばいいんですか?……」

「王の役割を果たし終えたときに」

「そんなに……先……?」

「王とはそういうものだ」




ポロポロととめどなく涙が流れ出す。

泉のそばに座り込み、千尋は幼子のように泣き始めた。




「……! 二ノ姫」

「…………」

何か答えたくても、しゃくりあげてしまって声が出ない。

さすがにまずいと思ったのか、忍人が傍らに屈み込んで肩に手をかけた。

「……すまない。俺の言い方が悪かったか」

千尋は必死で首を左右に振る。

が、涙のほうはいっこうに止まらなかった。

「……悪かった……ようだな」

両手で顔を覆い、ただただ泣き続ける千尋。

忍人はしばらくそれを見つめた後、思い切ったように千尋を抱き寄せた。




「!」

「…………」

言葉は一言もかけず、華奢な肩を上着ごと抱き締める。

一瞬泣き止んだ千尋は、もう一度、身体の奥から絞り出すように、泣き声を上げて忍人の胸にしがみついた。