姫君のお召し
勝浦の市で手に入れたスモモの実を届けようと、譲が宿の簀子縁をたどっていると、望美の部屋から出てくる人影があった。
「!」
「神子姫様のお召しはいつでも歓迎だからね」
「わざわざありがとう、ヒノエくん」
板戸を軽やかに閉めると、鼻歌交じりでこちらにやって来る。
果物籠を持って立ち尽くす譲に、ヒノエは意味ありげな笑みを投げかけた。
「何だい、オレが姫君の部屋を訪ねるのがそんなに意外?」
「い、いや、ただ、何の用かと思って……」
「野暮は言うなよ」
片目をつぶってみせると、そのまま傍らを過ぎていく。
「野暮……?」
譲は後ろ姿を見送りながら、思わずつぶやいた。
「あれ? 譲くん、どうしたの?」
「!?!」
突然声をかけられて、思わず籠を落としそうになる。
「せ、先輩!」
「あ、スモモだ! おいしそう!!」
恋する人の視線は自分ではなく、まっすぐスモモに注がれていた。
そっと苦笑すると、譲は籠を差し出す。
「市で見つけたんです。よければ、縁側で食べませんか?」
「食べる、食べる!!」
目をキラキラと輝かせながら、望美は譲を見上げた。
(……食べ物がらみでなく、こんな目で俺を見てくれる日は来るのかな……)
自虐的なつぶやきは胸に秘め、望美を階のほうに誘った。
「そういえばさっき、ヒノエが来ていたみたいですが」
最大限のさりげなさを装って切り出したとき、籠のスモモはほとんど消えていた。
「うん。あと、弁慶さんと九郎さんを捕まえなきゃ」
「つ、捕まえる?」
「先生と敦盛さんと景時さんは終わったから、残りはあの二人なの」
「ええと……八葉全員に用がある……んですか? その……俺は……」
「あ、譲くんはいいの! もう知ってるから」
「知ってる?!」
(え?! 先輩が俺の何を知っているって言うんだ?!
まさか俺の気持ちを……って、激ニブのこの人がそんなことに気づく訳ないか。
いい加減、慣れろよ、俺! で、でも、まるで俺だけ仲間はずれなのっていったい?!)
「ごちそうさま、譲くん。ありがとうね!」
輝くような笑顔を置き土産に、ご機嫌な望美は自室へと戻っていく。
「ああ、はい。あの、ええ……」
返事にならない返事を返しながら、譲は「そういえば」と思い返していた。
活発な望美が、このところやたらと自室に籠っている。
いったい何をしようとしているのか?
なぜ俺は呼ばれないのか?
持ち前の悲観癖を120パーセント発揮しながら、譲はがっくりと肩を落として簀子縁を戻っていった。
* * *
「ちなみに俺も呼ばれてねーぞ」
「……ああ……」
「聞いてるか~?」
「……ああ……」
心ここにあらずの弟を横目に、将臣は盛大な溜息をついた。
「そんなに気になるなら望美に聞けばいいだろうが!」
「うるさいな! 兄さんには関係ないだろ!」
整えていた矢羽根を乱暴に床に置くと、譲は立ち上がった。
あれから三日。
熊野川の様子を見に行く以外の時間、望美は相変わらず部屋に籠っている。
「ああ、もう! 湊の市に行ってくる!」
「俺、ポテチとコーラな」
兄の戯言には耳も貸さず、大股で玄関に向かう。
廊下の角で、ちょうど曲がってきた望美にぶつかりそうになった。
「あ、すみません! 大丈夫ですか?!」
「大丈夫、大丈夫。譲くん、どこかに出かけるところ?」
「え? いえ、先輩こそどこかに?」
「譲くんを探してたんだ。今、時間あるかな」
ないわけがない。
やっと自分の番が来たのかと、譲ははやる心を抑えながら望美と共に部屋に向かった。
「あのね、実はこのところちょっと部屋に籠ってたんだ」
(知ってます!!)
「やり始めたら止まらなくなっちゃって」
(……やり始めた?)
「朔や景時さんにも手伝ってもらって」
(朔? 朔が何で?)
「さっきようやく出来上がったの!」
望美が勢いよく板戸を開けると、文机の上に置かれた大きな布が目に飛び込んできた。
細かい格子模様のあちこちに色鮮やかな布が縫い留められている。
さらによく見ると、そこには……
「……アルファベット……?」
「うん。漢字は刺繍するのが難しいから、イニシャルにしちゃった」
「ええと……???」
望美がニコニコ笑いながら、布の中の一か所を指した。
緑色の布の上に、「Y」の刺繍。
「……もしかして、これ……?」
「うん、譲くんのこと。これはね、7月の17日なんだよ」
「!!」
まっすぐな糸が交差した、表のような紋様。
縦に12に区切られたスペースが、横にさらに細かく分けられている。
「まさか、カレンダーですか??」
「当たり!! 全部のマスが小さいポケットになってるの。色の布を使っているマスは、みんなのお誕生日!」
「誕生日! ……を、みんなに聞いていたんですか?!」
「うん。さすがに白龍のはわからなかったけど」
全身から力が抜ける気がした。
あんなにやきもきしたのはいったい何だったんだ。
そりゃあ兄さんと俺は呼ばれないはずだ。
毎年毎年、双方の家族が集まって祝ってきた誕生日。
お互いの誕生日は忘れようとしても忘れられない。
「ほら、こっちにいるとスマホもないし、テレビや新聞もないし、日にちの感覚がなくなってくるじゃない?
こういう旅先だと京に住んでるときよりもっとわかりにくいし。
だから作ったの。
このポケットにこれを引っ掛けて、今日が何日かを毎日確かめられるように」
そう言って望美が手のひらに載せて見せたのは、丸いボタン。
裏にクリップのような細工が施されている。
「これは……竹製ですか。あ、もしかして景時さんに?」
「うん! パッパと作ってくれたよ。
本当は上にお花とか描けばよかったんだけど、朔が『満月に見えるからこのままでいい』って」
「確かに。とてもいいですね、望月がカレンダー上を移動するのは」
うれしそうな譲の声を聞いて、望美は頬を上気させた。
「えへへ。それでね、今日はここに置くんだ」
Yのイニシャルの横に満月がぴたりと添えられる。
「……え?」
「ほら~! やっぱり忘れてる! 譲くん、自分の誕生日でしょ?
そういうことにならないように作ったんだよ、これ」
「そ、そうなんですか?」
たまたまとは言え、望美の手作りカレンダーで最初に祝ってもらえるのが自分とは!
「すごくうれしいです。ありがとうございます」
「でも、これを作るのに夢中になっちゃって、肝心のプレゼントがショボくなっちゃったの」
「プレゼント?!」
「……笑わないでね。あの、気に入らなければ使わなくてもいいから」
そうやって差し出されたのは、淡い緑地にYのイニシャルが刺繍された麻布……こちらの世界風に言うなら手巾とでも呼ぶべきものだった。
「…………」
「布の調達は朔がしてくれたんだ。私は布を染めて、そのビミョーな刺繍をしただけ。
ごめんね、お裁縫はお料理よりちょっとマシな程度の腕だから……譲くん?」
黙り込んだままの譲の顔を、望美が覗き込む。
「あの、嫌なら受け取らなくても……」
「使えませんよ、こんな……!」
悲鳴のような声を、譲が発した。
「だ、だよね~」
「絶対に手を拭いたりできません!
先輩が一生懸命作ってくれたものを濡らすなんて、俺には無理です」
「あ、でも濡れても色落ちはしないって朔が」
「今まであなたからもらった誕生日プレゼントはどれもすごくうれしかったけれど……これが一番です。
本当に一番です。ありがとうございます、先輩。大事に、大事にします!」
ようやく譲が喜んでいることに気づいた望美は、ほーっと安堵のため息をついた。
「よかった~! ダメ出しされてるのかと思った」
「俺が先輩にダメ出しするわけないじゃないですか!」
「だって~、これしか用意できなかったから」
「十分です! これ以上に欲しいものなんてありません!」
「譲くん、欲がないなあ」
望美は苦笑した後、あらためて譲を正面から見つめた。
小さく咳払いしてから、口を開く。
「譲くん、お誕生日おめでとう。そして、いつもそばにいてくれて本当にありがとう。
私がこの世界でも笑っていられるのは、譲くんのおかげだよ」
「大袈裟ですよ、先輩。……でも、俺が何か少しでも役に立てているならうれしいです。
俺の誕生日を覚えていてくれて……こんな風に祝ってくれて……本当にありがとうございます」
「望美ちゃん、贈呈式終わった~?」
突然、ガラリと板戸が開いて景時と将臣が顔を出した。
「おう、譲、ポテチ冷めちまうから早く来いや」
「景時さん? 兄さん? ポテチ?!」
譲が素っ頓狂な声を上げると、将臣が両手を広げて解説する。
「……のようなものだ! 里芋だか山芋だかをスライスして油で揚げてだな」
「将臣くんに教わって『こおら』も作ったんだよ。生姜で」
「それ、ジンジャーエールですよ、景時さん」
「うわ~、どっちもおいしそう!!」
望美が自分の何倍も喜んでいるのを見て、譲は素直に礼を言うことにした。
「ありがとうございます、景時さん、兄さん。っていうか、兄さん、全部知ってて黙ってたのか」
「サプライズのほうが盛り上がるだろ?」
「まったく……」
「兄上~! 早く譲殿と望美を連れてきてください」
朔の声にあわてた景時に背中を押され、譲と望美は八葉たちが待つ広間へと向かった。
「譲、誕生日おめでとう」
「うむ」
「お前たちの世界では生誕を芋で祝うのか」
「ああ、九郎がまた誤った知識を……」
「ようやく姫君のお召しを受けられてよかったな、譲」
「譲、私からも祝福を贈るよ」
皆からの言葉が降り注ぐ。
祝われたりからかわれたりしながら、譲はふとさっき見たカレンダーを思い出した。
曜日が記されていないそれは、この先何年でも使える作りになっている。
ポテチもどきを頬張りながらはしゃぐ望美は、そのことに気付いているのだろうか?
まさか、最初からそのつもりで作ったのだろうか?
目が合うと、弾けるような笑顔。
いい。
この世界に何年いることになってもいい。
どこにいても、どんな時も、自分は彼女を守り続ける。
(あなたのいる場所が、俺のいたい場所なのだから)
懐に入れた手巾を片手でそっと押さえると、譲は心の中でそうつぶやいた。
* * *
約ひと月後、望美が将臣に浅黄色の手巾をプレゼントするのを見て、譲が落ち込んだのはまた別のお話……。
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