封印

 


淡いピンク色が春の空を覆いだすと、毎年泣きそうな気持ちになる。

胸を締め付けるその痛みは、夕焼けを見たときに感じる胸騒ぎとはまた異なっていた。

失われた記憶の向こうで、私はいったい何を体験したのだろう。



* * *



「千尋」

風早の穏やかな声が、私を現実に呼び戻した。

「あ~あ、泣くくらいならこの道通らなきゃいいだろ」

呆れたように言うのは那岐。

珍しく、二人揃って下校してきたようだ。

高校から家に向かう途中の桜並木は私の鬼門。

花の季節にはわざわざ回り道して避けることもある。




「え、私、泣いてた?」

あわてて頬に手をあてる。

「ボロボロ、ボロボロ、はたで見てても呆れるくらいね」

広げたハンカチをバサッと顔にかけられた。

「ちょ、那岐! 危ない!」

「危ないのは千尋だろ。春の名物、アブナイ人」

「ほらほら、ケンカしないで。……別に体調が悪いわけじゃないんですね、千尋」

風早が少し心配そうに尋ねる。

「大丈夫。春恒例の、だよ。なんでかな。私、桜の花は嫌いじゃないのに」

「…………」




そういえば今朝も、起きがけに桜の夢を見た気がする。

夢の中で、私はいつもにある人に出会っていた。

「後ろ姿だし、遠いし、多分男の人だと思うんだけど、近づけたことがないの」

「……そう……ですか」

風早はこんな風に切れ切れに話す記憶の断片を、微かに微笑みながら聞いてくれる。

私と那岐の唯一の血縁で、保護者。

けれど、私の記憶がなぜ失われたのか、その前に何があったのかは、決して語ろうとしない。

「覚えていないということは、今の千尋には必要がないということですから」

「そう……なのかな」

いつもの台詞に、無理やり自分を納得させて先を急ぐ。




そのとき、春特有の、温かな強風が吹き抜けた。

もうずいぶん離れたはずの、桜の花びらが数枚、目の前を舞い散る。

途端に世界が大きく傾き、私はその場に座り込んでしまった。




(いや! いや! 行かないで! あなたを失うなんて耐えられない!!)




後から後から流れ出す涙。

引きちぎられそうな胸の痛み。

「…………さん………」

「千尋?!」

「……行かないで、おし……ひ……」

慌てて支える風早の腕の中、私は意識を手放した。

世界が暗く閉ざされる瞬間、微笑んでくれたのは風早とは違う……懐かしい人。

心から愛し、誰よりも大切な……あの人。




(……千尋……)

「おしひ……」




* * *




「やっぱり一度、医者に診せたほうがいいんじゃないの」

「この世界の医者には、どうにもできませんよ」

「炎の記憶ならともかく、桜に反応するなんておかしいだろ?」

「…………おかしくは……ないんですよ……」

「ふうん……。知ってはいるけど、言う気はないんだね。いつものとおり」

「すみません、那岐。時期が来れば……君にもわかることですから」




風早と那岐の声が、徐々に意識の中にしみ込んでくる。

「ん……」

身じろぎすると、すぐに風早が部屋に入ってきた。

「千尋? 意識が戻りましたか? どこか、痛いところは?」

「風……早……?」

「ええ。ここは千尋の部屋ですよ。倒れたこと、覚えていますか」

「たお……れた?」

桜色の霞の中、記憶はおぼろだ。




「私……学校のそばの花を見てたよね……?」

深刻な顔をしていた風早が、ほっと安堵の息を吐く。

「ええ。気分が悪くなったようですね。本当に、どこも痛くありませんか?」

「うん。ごめんね、心配かけて」

「いいえ」

すっと、風早の目が辛そうに細められた。

「あなたは何も悪くない。気に病む必要なんてないんですよ、千尋」

「風早……?」




しばらくじっと私を見つめた後、風早は微笑んだ。

「今日の食事当番は俺が代わりますよ。
おいしいもの作りますから、楽しみにしていてください」

「あ、私、当番だっけ」

「千尋が作るより、数倍おいしくなるからね。僕には異存ないよ」

部屋に顔を出した那岐が、いきなり憎まれ口を言う。

「ごめん。那岐にも面倒かけて」

「別に。千尋を背負ってきたのは風早だし、僕は玄関のドアを開けるくらいしかやってないから」

「でも、ありがとう」

礼を言うと、那岐は困ったような顔で笑った。



* * *



二人が部屋を出て行った後、窓から見える暮れ始めた空を眺めた。

一番星が光り、徐々に夜の帳が下りていく。

(もっとたくさんの星が輝く空を、私は知っている)

ビロードの黒幕いっぱいに大小の宝石をちりばめたような見事な星空。

その下で、誰かが手を差し伸べていた。




(俺は君のために生きてみたい)

(誰?)




優しい微笑み。




(あなたは……)

(覚えていないということは、今の千尋には必要がないということですから)




風早の声が、開きかけた扉をそっと閉じる。

急に襲ってきた眠気が、私の思考を麻痺させた。

暗い場所に落ちて行きながら、声にならないつぶやきを漏らす。




「……忍人……さ……」




完全な闇が訪れ、私はまた、大切な記憶を意識の下に眠らせた。








 

 
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