出逢う日の前に ( 3 / 3 )
「友雅殿、昼間、内裏のそばで怨霊騒ぎがあったと聞きましたが」
夜。
雲一つない空に浮かぶ月を簀子縁で眺めながら、鷹通が尋ねた。
「ほう、なかなか耳が早いね」
高欄にもたれた友雅は、酒杯を傾ける。
「使いに出た者が聞き込んで来たのです。友雅殿が怨霊を退治されたと。お怪我はなかったのですか?」
眉を曇らせる鷹通に、ほらこのとおりというように、友雅は両腕を広げてみせた。
「何ともないよ。通りがかった武士団の男がほとんど片付けてくれたからね。私はとどめを刺すのに手を貸しただけだ」
「そう……なのですか」
相変わらず険しい顔で、鷹通は橘邸の庭を見つめる。
しばらく後、友雅のほうに顔を向けた。
「実は先日、私も怨霊を調伏する現場に立ち会いました」
「ほう……?」
「治部省の管轄する寺に怨霊が巣食っていることがわかり、陰陽寮に調伏を依頼したのです。安倍晴明殿の一番弟子という方が出向いてくださったのですが……」
鷹通は言葉を探すように一瞬口ごもると、
「その方が、調伏は怨霊を鎮める最善の方法ではないとおっしゃったのです」
「どういう意味だい?」
興味をひかれた友雅は、杯を置いて鷹通を見つめた。
「怨霊は龍脈を穢し、土地の力を弱め、五行の巡りを妨げるもの。調伏はその怨霊を、力で無理矢理消滅させる行為だと。やがて穢れが溜まれば、怨霊は再び蘇ってしまいます。しかし調伏とは別に、怨霊を鎮め、五行の流れの中に戻すことで復活を防ぐ方法があるというのです」
「なぜその一番弟子は、そちらの方法を使わないのだね?」
友雅の問いを受け、ひとつ息をつくと鷹通は口を開いた。
「陰陽師には、それを行うことはできないのだそうです」
「……誰なら、できるのだい?」
「龍神の神子」
「龍神の……?」
「天から京に降臨する、龍神の声を聞くことができるという神子……。私も、古い文献の中でしか見たことはありませんが」
「なんだ」
ふうっと息を吐くと、友雅は高欄に背中をもたせかけた。
「単なる陰陽師の言い訳だろう。怨霊が復活した時に、文句を言わせないための方便だ」
「いえ、あの方は……保身でものを言うようには思えません。できるできないを周りの者が戸惑うほどにはっきりと断言されていました」
鷹通の真剣な表情を見て、友雅は微笑む。
「内裏には珍しい人種と見える。君に似ているのかな」
「お戯れを」
杯になみなみと濁り酒を注ぐと、友雅は月に向かってそれを掲げた。
「だが……もし本当に天から神子が降臨するのだとしたら……ぜひ会ってみたいものだね。この退屈な日々に、ほんの少しでも彩りが生まれるのなら……」
「友雅殿」
とがめるような鷹通の声音に、微笑んでみせる。
「冗談だよ。そんな思いすらもう抱くことはない。残念ながら私の中には、情熱というものがすっかりなくなってしまったのでね」
「そのようなことは。けれど、怨霊を浄化し、京を救う神子がもしいらっしゃるのなら、今こそ降臨していただきたいと……心から思います」
「熱いね」
杯に口をつけ、一気に飲み干す。
喉を焼く酒の熱さは、しかし友雅の心を温めることはなかった。
日々増えつつある怨霊。
干ばつが招く飢饉への恐怖。
悪疫の蔓延。
鬼の跳梁跋扈。
京を暗い影が覆い尽くそうとする今、時折訪ねる左大臣家の少女もまた、ひたすらに神気をもつ人物の出現を待っていた。
(……そうだ。行幸が終わったら、久々にあの星の姫に会いに行こうか)
杯を再び満たしながら、友雅は思う。
彼にとってはほんの気まぐれの行為。
だがその日から、彼をはじめとする八葉たちの運命は大きく変わり始めることとなる。
月明かりに照らされた庭では、早咲きの桜の蕾が白く浮かび上がっていた。
その蕾がほころび出すころ、京は一人の少女を迎える。
まだそのことを、彼女自身さえも気づいてはいなかった。
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