あなたを呼ぶ
(多分、心の中でそう呼んでいるからいけないんだな)
江の電の吊り革につかまりながら、譲は一人考え込んでいた。
(だから、とっさに「先輩」と言ってしまうんだ。常に「望美さん」だと思っていればきっと……)
望美から「先輩」でなく名前で呼んでほしいと言われ、実行に移してからすでに1カ月。
意識しているときは何とか呼べるようになったが、動揺したり、慌てたりすると100パーセント「先輩」に戻ってしまう。
これを何とかしなければ……というのが、目下の譲の悩みだった。
(……そういえば……)
譲はふっと、自分が彼女を「先輩」と呼び出したころのことを思い出す。
中学に入学した兄と望美。
自分一人が小学校に取り残され、大人びた(ように聞こえる)2人の会話に急についていけなくなった。
(自分は1年遅れているのだから、より早く大人にならなければ)
そんな焦りに似た気持ちが、翌年、中学に入学した譲には芽生えていた。
「譲くん! 入学おめでとう!! また一緒に学校に通えるね」
満面の笑顔で言う望美に、譲はぎこちなく答えた。
「……よろしくお願いします……春日先輩」
「……え?」
きょとんとする望美の代わりに、将臣が答えた。
「お、いっぱしに中学生気取りだな。まあ、確かにいつまでも『望美ちゃん』って呼んでるわけにはいかねえか」
「そ、そんなことないよ! なんか遠い感じがして嫌だよ」
望美が戸惑いながら言う。
「いえ、本当に、今日からはそう呼ばせてもらいます。よろしくお願いします、先輩」
「譲くん……」
きっぱりと言い切った譲に、望美は何ともいえない寂しそうな顔をした。
心は痛んだが、それが望美に近づくため必要なことなのだからと、譲は自分に言い聞かせた。
(馬鹿だな、俺……)
そのころの、必死な気持ちを思い出して譲は苦笑する。
ああやって壁を作ることで、幼なじみではない存在になりたかったのかもしれない。
結局、新たに生まれたのは学校の先輩と後輩と言う関係だったが。
(かえって歳の差を強調することになるなんて、皮肉だな)
しかし、望美のほうは相変わらず「譲くん」と呼び続けていて、それは今も変わらない。
譲の気持ちの変化とは関係なく、望美にとって譲は常に譲であり続けたのだろう。
(先輩らしいや……)と思いかけて、譲はまた自分が望美を先輩と呼んでいることに気づいた。
ブルンブルンと頭を左右に振る。
これをやめるために努力しているのだ。
(俺は……本当はどう呼びたいのかな……)
譲はあらためて考えてみる。
明るくてかわいくて、一緒にいることがうれしくてたまらなかった「望美ちゃん」。
子犬のようにいつまでもじゃれあっていたいという、あの気持ちはすでに過去のものだ。
輝くような微笑み、決然とした瞳、困難に立ち向かう強さ、驚くほどのもろさ、
そのすべてを守りたい、尊敬と愛情を込めて、ただ一人の愛する人として。
長い髪をなびかせ京の野辺に立つ、華奢な後ろ姿……。
「……望美さん」
自然に声が出た。
彼女を呼ぶ声。
心の中でも、現実でも。
「なあに?」
「うわっ!!?」
譲は驚いて飛び退いた。
すぐそばから返事が聞こえたのだ。
気づけばもう極楽寺の駅を離れ、実家のそばまで来ていた。
「ど、ど、ど、どうし……!?」
「ひどいなあ。呼ばれたから返事したのに」
プクっと望美が頬を膨らませる。
もちろん怒っているフリだけだが、その仕草がかわいらしくて譲は思わず抱き締めた。
「譲くん……!?」
「すみませんでした」
「い、いいけど、ここ、家の前……!」
譲の大胆な行動に、今度は望美が動揺する。
「望美さん」
「何?」
「望美さん」
「譲くん?」
「俺、大丈夫そうです」
「ええっ?」
意味がわからずに、望美は目を白黒させる。
「望美さんはかわいい」
「ゆ、譲くん、どうしたの? お酒でも飲んだ?」
「望美さん、大好きです」
「譲くん、どうしちゃったの~?!」
「俺は望美さんといられてうれしい」
「譲くんったら~~!!」
心の底から名を呼べるうれしさを満喫する譲と、まったく意味がわからない望美。
2人で有川家のほうに歩きながら、かみ合わない会話は続いた。
この日から後、譲が望美を「先輩」と呼ぶことはなかった。
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