臨界点

 



別にカウントダウンしていたわけじゃない。

自分でも気づかない間に、心の中の泉に投げ込まれていた小石。

ひとつ、ふたつなら気にする必要などなかった。




「出たくても出られない人もいるんだから……欠場なんてできないって思ったんです。
……当然、ビリでしたけどね」

俺だったら、恥ずかしくて翌日から登校なんかできなくなりそうな、お粗末な演奏。

伴奏者も連れず、神聖な舞台に裸足で立って、いったいどの面下げてそんなこと言ってるんだ、この女。

笑える神経が理解できない。




「ほとんど初心者のようなものです。音楽についても、知らないことばっかりで」

本当の初心者がヴァイオリンを弾けるわけないだろう。

自分が天才だとでも言いたいのか? 

だが確かに、腹が立つほど音楽には無知だ。

それなのにセレクションに選ばれて、恥知らずにも参加し続けようとする。

いったいどういうつもりだ。




「ええっ? 音大に進まないなんてもったいないですよ! どうしてなんですか?!」

誰もが望む道を進める訳じゃない。

世の中というのはそういうものだろう。

音楽家として生きていくのがどれほど大変なことかも知らない癖に、わかったような口をきくんじゃない。




「私、がんばろうと思うんです。
昨日、柚木先輩が言ってたみたいに、どんどん大変になるとは思うんですけど……。
私なんかより柚木先輩のほうがよっぽど大変ですもんね。
心配してもらっちゃってありがとうございました」

誰が……誰が心配?




泉から一気に溢れだす水。

いつの間にか俺の心の中には、こいつの沈めた石がいくつもいくつも積み重なり、生まれて初めて高い堰を乗り越えた。

抑えることなど不可能だった。

勝手に足が前に進み、口から声がこぼれ出ていた。




「心配? 俺が……お前の?」




ゆっくりと日野に近づいていく。

驚いて上を見た瞳が、大きく見開かれた。




「わからないかなぁ」




とんっと顔の横に手を着くと、威圧的に睨みつける。

心からの軽蔑を込めて、吐き出すように言った。




「うざいんだよ、お前」




物語の始まりだった。



* * *



「辞退しろと言っているんだ」

「これからのセレクションをひっかきまわされるのは迷惑だ」

「大丈夫……お前がいなくなったところで誰も気にしやしないさ」

耳に毒を注ぎこむように、そう囁く俺を呆然と見つめたまま、日野は終始無言だった。




いつも自分の中に抱えていたどす黒い感情。

悟られないよう加工して、カモフラージュして、用心深く吐き出すことしかできなかったそれを、思いのままぶつけるのは想像以上の快感だった。




大丈夫。

こいつがどんなに騒ぎ立てても、俺を疑う人間などいない。

俺の心に無神経に爪を立て、剥き出しにさせたことをたっぷり後悔させてやろう。

お前はこれから俺の玩具になるんだ。

たっぷりと楽しませてもらうぞ、日野。




逃げるように走り去る後ろ姿に、俺は心の中でそう呼びかけた。




明日は、いったいどんなふうに話しかけてやろうか。

ただ怯えさせるだけではつまらない。

他の生徒たちが見ているところで、あいつを追い詰めるのも楽しいだろう。

小さく含み笑いしながら、俺はその手段を求めて、生徒会室へと向かった。






 

 
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