それは難しいことじゃない

 

それは、難しいことじゃない。


あなたは甘い声でそう言うけれど。


「ねえ、譲くん?」


──そんな声で強請られたら。


「ちょ、ちょっと待ってください……」

「えー、だってたった3文字だよ?」

「それはそうですけど!」


そんな無邪気な瞳で見つめられたら、俺は……。


「……そんなに真っ赤になるようなことかなぁ?」

「少なくとも、俺にとってはそうですね……」

「だって昔は呼んでくれたじゃない、望美ちゃんて」

「それは子どもだったからです」

「景時さんは望美ちゃんて呼んでくれてたけどな」

「……うっ」

「あ、呼び捨てが無理なら『望美ちゃん』でもいいよ」

「もっと無理ですっ」


ますます頬に熱が籠るのを感じて、俺はずれてもいない眼鏡を押し上げるふりをした。

指の隙間からちらりとぬすみ見ると、あなたは少し不満そうに唇を尖らせている。

ひどく可愛らしいそんな表情に、俺の心臓がまたひとつ跳ねた。


「2人っきりの時だけでいいのにな」


ぽつりと呟くその声も、少し拗ねた色を含んでいて。

そんな声を出させてしまうことに、罪悪感がないわけじゃない。


でも、先輩。

あなたはやっぱり、何もわかってない。


「じゃあ先輩。試しに俺を呼び捨てにしてみてください」

「──え?」


予想もしなかったのだろう、俺の言葉に驚いて、あなたが目を丸くする。


「譲くんを?」

「はい」

「そんな、いきなり無理だよ」

「どうしてですか、たった3文字ですよ?」

「……うっ」


俺の思わぬ逆襲に、今度はあなたが狼狽える番だ。


「……え、っ、だって……もうずっと小さい頃からこう呼んでるし」

「子どもの頃とはもう違う」

「それは……そう、だけど」


耳まで真っ赤に染めてあなたは俯き、口の中だけで小さく呟く。


そう。

俺たちはもう、子どもの頃とは違う。

だからこそ、呼べない──


「──ゆ、ずる……」


小さな、小さな囁き声に、俺ははっとする。

あなたは俯いたまま、もう一度、微かな声で。


「……譲」


頬が、かっと燃え上がったような気がした。


気がつくと、あなたは少し潤んだ瞳で、まっすぐ俺を見つめている。


「……呼んだよ。次は譲くんの番」


頬を紅く染めたまま、少し怒ったように唇をきゅっと一文字に引き締め。

それでいて、潤んだ瞳を微かに揺らめかせて。


──ねえ、先輩。

そんなふうに見つめられたら、俺……。


「……あ」


思わずあなたをそっと抱き寄せる。

驚いたような吐息が、あなたの唇から零れ出る。


「──降参です……望美」


耳元でそっと囁くと、あなたの肩が、びくり、と跳ねた。




「恋の道行き いろはのお題」より
お題配布元:負け戦さま


 
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