大原の夜 (1 / 5)






「先輩! 危ない!!」

という声が聞こえたときには、すでに私の足は地面を離れていた。

「うそっ!?」

譲くんが必死で伸ばしてくれた手のほんの数センチ先を、身体が落下していく。

ドボーンと派手な水音をたてて、私は淵に飲み込まれていった。


* * *


パチパチと薪のはぜる音が聞こえる。

温かな炎に手をかざしながら、絶対に近寄ってこようとしない譲くんを振り返った。

「譲くん、寒くない?」

「大丈夫です」

「でも、もう少し近寄ったら?」

「いえ、俺はいいです」

さっきから同じ会話の繰り返し。

多分、火の周りに干してある私の下着を見てはいけないとか、何より譲くんの着物を借りて羽織ってるだけの私に近づくのはまずいとか、そんなことを考えているのだろう。

けれど…




「クシュン!」

必死に我慢していたらしいくしゃみが、ついに響く。

「ほら! やっぱり寒いんでしょ? これ、返そうか?」

いつも着ている水色の上着と、その下の紫の着物まで貸してくれて、譲くんは単衣1枚だ。

どう考えても私より寒いはず。

私が水色の上着を脱ごうとすると、

「いえ! 大丈夫ですから! 先輩こそ、ずぶぬれになったんだから温かくしなきゃだめですよ」

「だったらここに来て。じゃないと絶対に返す」

「……!」

まだためらっているのを見て、最後の殺し文句を口にした。

「譲くんがそばにいてくれたほうが、私もあったかいし」

「…あ」




渋々という感じで彼が近づいてくる。

干してあるものから目をそらしながら、少し離れた所に座ったので、私はその腕を取ってぐいっと引っ張った。

「せ、先輩!」

「だから、そばにいてくれないと温かくないよ」

「そ、それはそう…なんですけど」

目のやり場に困って視線をさまよわせているのを見て、自分の胸元に気づく。

「あ、ご、ごめん。やっぱり着物が大きいからはだけちゃうね」

「す、すみません」

「譲くんが謝ることじゃないよ」

着物の前をしっかり合わせて、上着をすっぽりかぶる。

最初は上着だけでいいと言ったのだが、あいにく袖の切り替えのところから肌が見えてしまい、真っ赤になった譲くんに無理矢理もう1枚押し付けられたのだ。




ようやく覚悟がついたのか、彼の身体から力が抜けた。

「先輩、俺、逃げたりしませんから、腕は離していいですよ」

「このほうがあったかいよ」

腕を両手で抱え込んだまま、私は軽くもたれかかる。

「……先輩がそれでいいなら…」

少し困ったような声で言うと、そのまま黙って火に視線を移した。

不思議なほど静かな時間。

そもそも、初夏のような陽気に誘われて、大原まで散歩に出たのは私の発案だった。

八葉のほとんどに所用があるため怨霊退治に行くことができず、かといって家で過ごすにはあまりにいい天気。

遅くなる前に帰るからと約束して、譲くんと二人で出かけてきたのだ。




かわいらしい野辺の花が咲き乱れる大原の野は思っていた以上に魅力的で、時間を忘れてあちこち歩き回るうち、不意に現れた淵に落ちてしまった。

着物を乾かしたり、着替えたり、バタバタしているうちに陽はすっかり落ち、野宿の覚悟をするはめになった。

譲くんは、風の除けられる木立の中で手際よく火を熾し、一夜を過ごす場所をしつらえてくれた。