『BARAGA-鬼ki』ゆかりのスポット巡り


鶴ヶ城(福島県会津若松市)

会津藩主の居城である鶴ヶ城の歴史は、14世紀後半に会津を治めた葦名氏がこの地に館を構えたことに始まります。
伊達政宗葦名義広を破った後いったん入城したものの、豊臣秀吉に召し上げられ、蒲生氏郷が新たな城主となりました。
彼はわずか4年の統治の間に城下町を整備し、鶴ヶ城の七層の天守閣を完成させ、千家茶道の流れを汲む茶室麟閣を作るなど、現代に続く会津の基盤を築いています。

その後、上杉景勝加藤嘉明などの著名な戦国大名がめまぐるしく入れ替わった後、二代将軍徳川秀忠の庶子、保科正之が城主となり、以後明治維新まで保科から改名した松平によって会津は治められます。
新選組を召抱えた京都守護職、松平容保公は9代に当たります。

なお、蒲生氏郷の時代の城の外壁は豊臣を表す黒色で塗られており、その後改築の際に、徳川を表す白に塗り替えられたそうです。

 

上左は会津若松市観光PRキャラクターの「お城ボくん」
タツノコプロ笹川ひろしさんがデザインされたそうです。会津若松市出身なんですね。
一番上の写真ではわかりにくいですが、鶴ヶ城の屋根瓦は赤。
2011年に明治以前の赤瓦に戻す工事が完了し、それを記念してこのキャラクターが生まれたのだそうです。
お城の入り口は上右のようなごっつい石組みになっています。

   

中に入るとこんな(上左)素敵な係員さんがお迎え
城内は撮影禁止のエリアが多いのですが、戦国時代から戊辰戦争に至るまでの会津と城の歴史が詳しく展示されています。
上右は2000年に再建された干飯櫓・南走長屋の内部。
奥には銃を構えた兵士の姿が再現されています。

 

城の敷地内にある茶室麟閣(上)。
千利休豊臣秀吉に切腹を命じられた際、彼の茶道が絶えることを惜しんだ蒲生氏郷(彼は利休七哲に数えられています)は、息子の千少庵をここに匿いました。
後に秀吉に許され、京に戻った少庵は、今日の武者小路千家、表千家、裏千家に続く千家茶道を再興しています。
麟閣自体は戊辰戦争後にいったん移築され、1990年に今の場所に移築復元されました。

 

ご存じのとおり、鶴ヶ城は戊辰戦争の激戦地。
1カ月に及ぶ壮烈な篭城戦の末、開城に至ったとき、城は上左の写真のようにボロボロになっていました。
会津藩はこの後、青森県下北半島の斗南に移され、極寒の地で藩士たちは辛酸をなめることとなります。
城は1874年に取り壊されました(1965年に再建)。

なお、現在の天守閣からは、城が落ちたと誤解して自刃した白虎隊の最期の地、飯盛山を見ることができます。上右の写真の紅白の鉄塔の右が、飯盛山です。

この地に来た新選組は、新政府軍の会津進攻に備えて母成峠に布陣しますが、圧倒的な火力の差で一日ももたずに敗走しました。
ここで土方さん斉藤さんの意見が対立。
庄内か仙台に行って抵抗を続けようとする土方さんに対して、「これまでの恩義を思えばここに留まって戦うべき」と主張する斉藤さんは袂を分かつことになります。
二人の今生の別れとなりました。

*『BARAGA-鬼ki』ポイント
劇中での土方さん斉藤さんの別れは流山で。
函館に行って徳川幕府を再興するという土方さんは、斉藤さんに新選組を連れて会津に向かうよう言います。

斉藤「では…ここでお別れですか?」
土方「別れ? いや、今に薩長に勝る軍隊を作って必ず戻ってくる。だから、それまで会津で踏ん張ってくれ」
斉藤「わかりました。早くしてくれないと…会津はそうもちませんから…必ず実現させてください」
土方「ああ、そん時は、すぐさま応援に駆けつける…きっとだ」

この時点で、ほとんど希望がないような作戦ですが、ほかの道はもう残されていませんでした。