戻ってきた日常

「おはよう、譲君！」

「お、おはようございます。珍しいですね」

冬休み明けの新学期第１日。

寝ぼけ眼の望美を玄関先で待つことになるだろうと思っていた譲は、チャイムを鳴らした途端に飛び出してきた彼女に驚いた。

「１日目くらいはね。きっとだんだんフェードアウトしていくよ」

舌をぺろりと出して悪戯っぽく笑う。

ともに越えてきた異世界や迷宮での日々がまるで嘘のような明るい表情。

それがいいことなのか悪いことなのか、譲にはとっさに判断がつかなかった。 
 

「あれ、将臣君は？」

「学校は久しぶりだから、早めに行って慣れておく--って言ってました」

「そうだよね……」

将臣にとっては、３年ぶりの登校。

姿は３年前に戻ったとはいえ、違和感はぬぐえないだろう。

「よし、教室では私がいろいろフォローするよ！」

「あの……」

腕まくりして張り切る望美を、譲が困ったような顔で制止した。

「？　どうしたの？」

「兄さん伝言しろって言うから……しますが…」

「うん」

「『望美がおふくろ並みに世話焼こうとしてかえって墓穴掘るのは目に見えてるから、余計なことするなと言っとけ』……だそうです」

「ひっどーい！！　私を何だと思ってるのよ、将臣君は！！」

プリプリと怒る望美を、譲は笑いをこらえながら見つめる。

「譲君まで笑わないの！」

「すみません。でも、想像できるなあ…と」

「有川兄弟、退場！！」

大股でズンズンと歩き出した望美の後を追いながら、「本当にやっと、日常が戻ってきたのだ」と、譲は実感した。 

＊　＊　＊ 

「あのね、将臣君、ちゃんと学生してたよ」

うれしそうに話す声。

部活を終えた譲と、クラスメートとのおしゃべりをたっぷり楽しんできた望美は、帰路で偶然会った。

望美は早速「その日の将臣君」報告を譲にする。

「昼休みなんかバスケまでしちゃって。
男子とじゃれてるの見ると、結局年齢なんかあんまり関係ないのかなって思った」

「そうですね。俺たちと再会した時も、あんまり兄さん、変わってなかったし」

どこかほっとしながら、二人は微笑みあった。

しばらく沈黙した後、足下を見つめながら望美が言う。

「でも、譲君は変わったよね」

「え？　そうですか？」

何のことかわからない、という顔で、譲は望美を見た。

「うん。だって前は何となく、私が将臣君の話をするの嫌そうだったもの」

「そ……！」

顔が一気に紅潮するのがわかった。

自分では必死に隠していたつもりの想い。

だが、望美はとっくに気づいていたのだろうか。 
 

両手を前に突き出して、伸びをしながら望美は空を見上げる。

「親子でも兄弟でも、男の人はやっぱりどこかライバル同士なんだって聞いたことがあるの。
だから、譲君もそんな感じなのかなって思ってた。
でも、今はとっても優しい目で将臣君の話を聞いてくれるよね」

うれしそうに微笑む望美を見つめ、ひとつ溜め息をついてから譲は答えた。

「……結局、俺はガキだったんです。
マイペースで、俺の気持ちになんかまるで頓着なく自由に振る舞って、それでいて俺が絶対にできないようなことを成し遂げてしまう。
そんな兄さんがうらやましくて……いや、妬ましくて……素直にあの人を見ることもできなかった」

望美が真剣に耳を傾けているのを意識しながら、譲は続けた。

「でも、兄さんの器は俺なんかよりよっぽど大きかったんです。
俺が何をやっても受け止めるだけの度量があって、いつでもそっと見ていて、守ろうとしてくれた。
今は恥ずかしいくらいですよ、反発して突っかかっていたころの自分が」

「すごい、譲君！」

心底感心した、というように望美が声を上げた。

「私なんか、ときどきそういう気持ちになることがあっても、将臣君にからかわれるとすぐ忘れちゃうもん。
いまだに突っかかってて、進歩ないよね」 
 
にわかにしゅんとする望美を、譲がやわらかくフォローする。

「兄さんは、突っかかってほしくて言ってるんですよ。
実際、とてもうれしそうだし。
先輩がリアクションしなくなったら、がっかりすると思いますよ。だって……」

急に声が途切れる。

不思議に思った望美が見ると、譲は口元を隠して首まで真っ赤になっていた。

「譲君？」

声は聞こえているのに、目をそらす譲。

やがて、覚悟したようにぽつりとつぶやいた。

「……突っかかってくる先輩は、すごく可愛いですから……」

「…！」

今度は望美が真っ赤になる番だった。 


＊　＊　＊ 


その後はろくに話もせず、自宅の前まで戻ってきた。

「じゃあ、また明日」と手を上げた譲に、望美は思い切って話しかける。

「譲君、試合、もうすぐだよね」

「え？　あ、はい、今週末です」

「応援に行くからね」

「ありがとうございます」

「そのかわり試合が終わったら……」

「？」

突然うつむいた望美が、小さな声で何かささやいた。

その声が聞こえず、譲は身を乗り出して耳を近づける。

「…また…」

「はい？」

「…また二人で出かけられるかな…どこか…」

「あ…！　はい、そうですね、ぜひ！」 
 
譲の弾んだ声に励まされて、望美は顔を上げた。

「あの、今度は全部譲君に任せるから！
　譲君の好きなところに連れて行って！」

「先輩は希望ないんですか？」

「私は…あの…」

またうつむいて声が小さくなる。

思わずさらに身を乗り出すと、消え入るような声が耳に届いた。

「譲君と一緒にいられるなら、どこでもいいから…」

一瞬息が詰まる。

やがて、望美の肩にそっと手を添え、真っ赤になっている耳元に唇を寄せてささやいた。

「…俺も同じです……」

「おまえら、キスならせめて家の中でやれ」

将臣のあきれたような声が降ってきたのは、その直後だった。