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花びらの中で ( 2 / 3 )

 



春風が芳香を運んでくる。

目を閉じていても辿り着けそうなほどのかぐわしい香りと、ふんわりと広がる薄紅色の雲。

その場所は、確かに「桜の名所」の名に恥じない美しさを誇っていた。

「……きれい…」

「ああ。見事なものだな」

即位式に向かう人間が多かったせいか、三輪山に人影はない。

夢の中に踏み込むような心地で、千尋は歩を進めた。

周りを見回し、上を見上げ、両手を広げて春の息吹を吸い込む。

下に垂れた枝につく花を見つけると、駆け寄って香りを堪能する。

そのままうっとりと樹上に視線を投げ、青い空との対比を味わう。

木の根に足を取られ、よろめくとすぐに忍人が後ろから支えてくれた。




「ご、ごめんなさい」

「…いい加減に慣れた」

「…!」

反論しようと顔だけ振り向くと、

「君は好きにするといい。俺が必ず守る」

と、瞳をまっすぐに見て言われ、千尋は首まで赤くなった。

「…千尋?」

「ず…ずるい……」

いきなりうつむいた千尋に、忍人は不思議そうに言った。

「何がだ?」

千尋はさらに赤くなるだけで答えない。




不意に風が吹き、花びらがいっせいに舞い散った。

忍人は軽く袖をかざして千尋を風から守ると、

「腰を下ろしたほうがいいだろう。落ち着いて花を見られる」

と促した。

そのまま二人で桜の根元に座る。

確かに、立っているときよりもじっくりと空が眺められた。

真っ青な空に、時に白く、時にピンク色に見える花の雲がかかる。

はらはらと舞い落ちる花びらは、天からこぼれる光の結晶。

「…うわあ……」

しばらく見とれていた千尋は、ふと忍人が自分を見つめていることに気づいた。

「…な、何ですか?」

「花びらが入りそうだな」

「!」

あわてて、ぽかんと開けていた口を両手でふさいだ。




ふっと忍人が笑った。

「別に毒ではないから、かまわないだろう」

「で、でも、口を開けてるとバカみたいでしょう?」

ふさいだ手の中からモゴモゴと千尋が言う。

「そんなふうには思わない」

「……………」

まっすぐに否定されて、千尋は赤い顔のまま両手を下ろした。

そして、ことんと木の幹に寄りかかる。

(この人は、どれだけうれしいことを言ってくれているか、自覚がないんだろうな)

目を閉じて、今日忍人からかけられた言葉を一つひとつ思い出してみた。

飾り気がない、それだけに温かい言葉の数々。




ふわっと肩を包む感触に驚いて目を開ける。

忍人の上着がかけられていた。

「忍人さ…」

「少し休むといい」

また顔の温度が上がるのがわかった。

「忍人さんは寒くないんですか?」

「ああ」

腕を前で組んで、忍人も桜の幹に寄りかかった。

少しもじもじした後、その傍らに千尋も寄りかかる。

二人はしばらく無言で、見事な光景を見つめた。

春の光が、ゆっくりと桜の園を照らし出す。

鳥の声と、川のせせらぎ。

時の流れさえも、ここでは穏やかなように思えた。




「…約束を」

不意に忍人が口を開いた。

「え…?」

「俺は果たせただろうか」

「…!」

二枚、三枚と花びらが膝に、肩に落ちる。

いつまでも返事が聞こえないので、忍人は千尋のほうを見た。

膝の上でギュッと両手を握り、思い詰めた顔をしている。

「…千尋?」

肩がぴくんと震え、絞り出すような声が聞こえた。

「…ま、まだです」

意外な返事に、忍人は静かに身体を起こす。

そして無言で次の言葉を待った。





 
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