『遙かなる時空の中で』

鷹通×あかね

 

2012年卯月・地


なぞる


あなたの書いた優美な文字をなぞる。何度も何度も。

不器用な筆は思い通りのラインを描いてはくれないけれど。

物忌の文に私の想いを乗せるため。この世界の文字で心を伝えるため。

優しい微笑みや温かい声を思い出しながら、あなたが書いてくれたお手本を一生懸命真似る。





あなたの書いた文字を指でなぞる。繰り返し繰り返し。

遙かな時空を超え、突然舞い降りた世界で懸命に生きるあなたが、ひたむきに綴る一つ一つの想い。

桜色の指を引き寄せ、この胸に抱きとめたいと……そう逸る心を抑えつけながら、

私は今日も穏やかに微笑みかける。




天秤

「龍神の神子じゃなければ、こんなふうに一緒にいられなかったから」

よかったと神子殿に笑われて、胸を刺す痛みを覚える。

宮仕えの立場、八葉の使命、そんな名目はもう、自分の中でほとんど意味をもっていない。

私の心は「あなた」に大きく傾いているのだから。




ずるい

誰にも分け隔てなく優しくて、たとえ鬼の話であってもしっかりと耳を傾ける。

私にもにっこり微笑んでくれるけど、それってさっき子猫に向けたのと同じ笑顔ですよね?

鷹通さんにまったく非はないけど、一人で空回りするのに疲れてこっそりつぶやいてしまう。

「ずるい…」





「鷹通ばかりかまっていて、ずるい」

兄たちが義母を責める言葉を聞いて、足がすくんだ。私のせいで大切な人が困っている。

以来、誰とでも一定の距離を置いて接するようになった。

だが今、神子殿がつぶやいた「ずるい」は…? 胸に広がる甘やかな予感に、私は困惑する。






「やっぱり男の人は大きいほうがいいんだよね?」と、神子殿が無邪気に問い掛けたので、

真っ赤になる者3名、「そりゃそうだ」と言って小突かれるもの2名、

「問題ない」者1名、残りの曲者1名の答えも気になるのですが、

み、神子殿、私のほうを見るのはおやめください!





2012年皐月・天




「神子殿、この雨では私は早く歩けませんので、友雅殿と先に土御門にお戻りください」

鷹通さんの言葉に驚いて顔を見ると、濡れた眼鏡を外したところだった。

とってもきれいな黒い瞳。

「わ、私が危ないところは教えますから!」

思わず手を取って、ズンズン歩き始めた。





雨の中で眼鏡は使えない。外せば視界は極端に霞む。

これでは本降りになる前に、神子殿を邸に送り届けられない。

「友雅殿と先にお戻りください」と伝えると、彼女は突然私の手を取って歩き始めた。

「神子殿!?」

あなたの頬が少し染まって見えるのは、私の気のせいですか?






日々の務めを果たすことが生き甲斐だった私の、心の内にあった大きな空ろ。

意識すらしたことのなかったその場所を、人を恋うる昂揚感と痛みが満たしていく。

たとえこの想いが叶わずとも、あなたと出会えたことを後悔はいたしません。

あなたを愛することができて、よかった。





「鷹通さん、緊張してますか?」

「いえ、私は大丈夫ですよ。むしろ少しわくわくしています」

「で、でも、一応手をつないでおきましょうね」

「? そういえばあかねさんも初めて…?」「う、動いた!」

機体は滑走路を疾走し、飛び立つ。

二人が初めて見る現代の空へと。






「どうやら私は病を得たようなのです、友雅殿」

「ほお」

「尋常ならざる動悸、発汗、発熱、震え、意識が遠のくことすらあります」

「なるほど」

「神子殿のおそばにいなければ少しはマシなのですが、最近では夜も眠れなくなって…」

「鷹通」

「はい」

「もう帰っていいかな」






「こ、これはかなり強烈ですね」

「カレーなんてまだまだだぜ! 明日は四川料理食いに行くからな!」

「ちょっと天真くん! 鷹通さんは香辛料に慣れてないんだよ」

「こっちで暮らすなら慣れなきゃだめだろーが」

「天真先輩、あかねちゃんを取られたからって」

「詩紋、黙れ」





2012年皐月・地




「私たちの世界では、爪を染めたり飾りをつけたりするおしゃれがあるんですよ」

と言うと、鷹通さんはじっと私の手を見て

「神子殿の爪は桜の花びらのように美しいのですから装う必要などないでしょう」

と一言。

「やるね、鷹通」と友雅さんがつぶやいた。




一歩

空気の匂いと聞こえる音がまったく違う。

わかっていてさえこれほど驚くのに、突然京に召喚された恐怖はどれほどだっただろう。

「…鷹通さん」

不安そうな声に、つないだ手を力強く握り返す。

これは私の選択。

新しい世界であなたと歩み出す一歩をためらったりはしません






「もうすぐ元の世界に帰れるね」

札が集まったとき、詩紋くんが言った。

「そう…だね」

「あかねちゃん?」

最近の私はどうすれば離れずにいられるかばかり考えている。

「ええ、もう少しですね」

横で微笑むあなたは本当に平気なの?

「行くな」という言葉を言ってはくれないの?





幼い日、「それが母の幸せだから」と嫁ぐ後姿を見送り、

今また、「帰ることが神子殿の幸せだから」と愛しい人を見送ろうとしている。

これは私の運命なのだろうか。

けれど、あなたと過ごした日々が、私の中の何かを変えた。

抗おうと心がもがき始めているのがわかるから。




すくう

天真くんが大騒ぎして作った「鷹通の庭用スプリンクラー」は、一瞬動いたもののすぐに壊れてしまった。

桶の水を柄杓で花にかけながら「何事も試みなければ新しい物は生み出せませんから」と微笑む鷹通さん。

そういうところ、やっぱり大好きだなあ…と頬が熱くなる。