朝夷奈再訪 ( 1 / 4 )
「譲くん、起きてる?」
小声で呼びかけられて、ソファに寝転んでいた譲はあわてて身体を起こした。
夏休みの昼下がり。
部活が休みということもあって、文庫本を片手にリビングでくつろいでいた。
窓外に目をやると、麦わら帽子をかぶった望美が手を振っている。
「先輩!」
飛んでいってガラス戸を開けたが、望美が入ってくる気配はない。
「あ、いいのいいの。一緒に出掛けないかと思って」
「出掛ける?」
問い返してから譲は、まだ朝の10時だというのにギラギラ照りつけている太陽をチラッと見上げた。
「うん! 朝夷奈の切り通しをハイキングしない?」
「朝夷奈……ですか…?」
異世界にいた時こそ何度か通ったものの、そういえばこちらでは足を運んだことがない。
望美が突然、何を思いついたのかわからないが、「一緒に出掛ける」という提案に異論があるはずもなかった。
「じゃあ、おにぎりくらい持っていきましょうか。ちょうどお昼時になりそうだし」
「え? そんな、コンビニとかで何か買えばいいよ」
「すぐすみますから、先輩、玄関に回ってください」
望美を涼しいリビングに通すと、譲は手早く弁当の支度を始めた。
卵焼きとソーセージと昨夜の残り物をいくつかタッパーに詰める。
おにぎりを少し多めに握り、まとめて銀色の断熱シートで包むと、
「お待たせしました。お茶は、向こうで冷たいのを買いましょう」
と、デイパックに荷物を放り込んで言った。
「ほ、本当にすぐだね」
「たいしたものは作っていませんから」
キャップをかぶり、山歩きに備えて底が厚めの靴をはく。
並んで置かれている望美の靴も、歩きやすそうなスニーカーだった。
* * *
鎌倉駅。
真夏の鎌倉は、夏休みを利用して訪れる観光客でにぎわっている。
外国からの訪問者も驚くほど多い。
「この暑いときにすごいなあ…」
「先輩、俺たちも同類です」
「そっか」と納得する望美を促して、金沢八景駅行きのバスに乗り込んだ。
くねくねと曲がる片側一車線の道路を、バスが丁寧にたどっていく。
これは、異世界での梶原邸に向かう道でもある。
宅地開発が進み、アスファルトの道路がきれいに整備されているので、どこがどうと照らし合わせることもできないが、譲は目の前を過ぎていく風景にじっと目をこらした。
隣に座った望美も、黙って景色を眺めている。
(…先輩?)
このハイキングは、単なる思いつきではないような気がした。
十二所神社のバス停で降り、標識に従って朝夷奈切り通しへの道を進む。
住宅街はすぐに途絶え、道の傍らを流れる小川と、濃い緑、それに切り通しの名の通り、無骨に削られた岩肌が行く手に現れた。
「日陰はやっぱり涼しいね」
「緑が多いから、なおさら涼しく感じるんでしょうね」
木漏れ日を見上げながら、譲は言った。
土と岩を踏みしめて歩いていると、あの頃の感覚が蘇ってくる。
死と隣り合わせの、けれど仲間たちと常に一緒だった日々。
うれしそうに少し先を行く望美を、後ろから見守りながら歩く。
「すごい! なんかあっちに戻ったみたい」
望美も、感心したように言った。
人が踏み固めただけの未舗装道は、確かに異世界でたどった道とよく似ている。
すっと望美が岩陰に隠れた途端、激しい恐怖が譲を襲った。
「先輩っ!!」
「え…?」
いきなり走り寄って来た譲に、腕を取られて望美はびっくりする。
緑陰の中でもはっきりわかるほど青ざめた顔。
「譲…くん?」
「…あ…」
気まずそうに、譲が目をそらす。
望美が不思議そうに顔を覗き込むと、目をそらしたまま抱きしめられた。
「……すみません。一瞬、先輩がまた異世界に消えてしまうような気がして」
Tシャツごしに、譲の速い鼓動が聞こえる。
「…私はどこにも行かないよ。もし行くとしても、絶対に譲くんと一緒だよ」
望美は安心させるように、譲の背中に手を回して言った。
「はい…」
しばらく寄り添った後、望美は譲の手を取って
「ここからは手をつないで行こう?」
と提案した。
「え? でも…」
「向こうでこんなことしたら、九郎さんに怒られるけど」
「そ、そりゃあ…」
その前に、ヒノエや弁慶にどんなことを言われるかわかったものではない。
兄も確実に腹の立つコメントを述べるだろう。
「そういえば、最初のうちって私、白龍と手をつないでたんだよね」
顎に指を当てて、望美が呟く。
「ええ。大きくなってもつなごうとするので、止めるのが大変でした」
「本人には大きくなった自覚がないから」
クスクス笑う。
周りからすれば、そんなに無邪気に受け取れる事態ではなかったのだが、望美には八葉も白龍も、朔同様に「とても仲のいい友達」だったのだろう。
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