16歳

 

ガラッと教室の戸を開けた途端、その物体は望美の顔面を直撃した。

この感触とこの匂い……。

まぎれもなく濡れぞうきん……。




「せ、先輩っ!?」

悲鳴のような声が聞こえて、ぞうきんが顔から滑り落ちる前に譲に抱きかかえられていた。

「…気持ちわる…」

「すみません! 俺、なんてことを!! すぐ洗面所に…!!」

白い清潔なハンカチを渡されて、廊下を二人三脚かと思う勢いで走る。

多分これが校内でなければ、確実にお姫様抱っこされていただろう。

女子トイレの前で望美を解放すると、譲はドアの外でひたすら謝った。

「すみません! いくらけしかけられたからって、あんな悪ふざけ…! くそ、何やってるんだ、俺…!!」

ドアの横の壁を拳で叩く。




ゆっくりと気の済むまで洗顔した望美は、譲のハンカチで顔を拭きながらトイレから出てきた。

「悪ふざけ?」

「その……雪合戦の要領で……濡れぞうきんを…」

「……投げ合ってたの?」

呆れたように言う望美に

「すみませんっ!!」

と、譲が膝に付かんばかりの勢いで頭を下げた。




「女子が家庭科でいなかったんで、男子が盛り上がっちゃって……」

ぷっと吹き出す声に、思わず顔を上げる。

望美が手を口に当ててクスクス笑っていた。

「先輩?」

「ご、ごめん。で、でも、やっぱり……」

身体を二つに折って笑い出した望美を、譲は呆然と見つめる。

「あ、あの……?」

怒っていないのは助かるが、笑われる理由がわからない。

望美はついに座り込んでしまった。




しばらく後、「ごめん、ごめん」と指で涙を拭いながら望美がようやく立ち上がる。

それに手を貸した譲は、望美の顔をこわごわと覗き込んだ。

「私、何か安心しちゃった」

「え?」

にっこりと、譲にとっては殺人的な威力を持つ微笑みを浮かべて望美が答える。

「譲くん、ちゃーんと高校生やってるなあって。っていうか、はっきり言ってガキ!」

「せ、先輩!!」

思わず身を乗り出す譲の胸に片手を置き、もう一方の手の人差し指を唇の前に立てて望美が続ける。

「うれしかったの! 譲くんが普通の男の子っぽくて。あっちではいろいろ我慢したり、大変だったと思うから、伸び伸びしてるの見るとすごくうれしいよ」

輝くような満面の笑顔。




「…………」

「? 怒っちゃった?」

「………我慢なら、今、最大級のをしてます」

「え?」

譲が顔を真っ赤にしてうつむき、伸ばした腕の先の拳を固く握りしめながら言う。

「…なんで……こんな人通りの多い校内で、こんな真っ昼間に……」

「譲くん?」

「どうしてあなたは……」

「何? 私、何したの?」

「……そんなにかわいいんだっ……!」

「!!??」

今度は望美が顔を真っ赤にする。




何を我慢しているかは、絶対に聞かないほうがいい!

望美はそう判断すると、テンション高くしゃべり出した。

「あ! あの、放課後にね! 一緒に将臣くんのバイト先に行かない?って誘いに来たんだった!! 新メニューをおごってくれるんだって! 滅多にないチャンスだよ!!(ケチだから) 私、譲くんの部活終わるまで待ってるから! ね?! 行こう!!」

「俺は行きません!」

「どうして?」

「どうしてわざわざ邪魔者のいるところに行かなきゃならないんですか!」

「邪魔者って…!」

「邪魔者です!!」

きっぱり言い切る譲の顔を呆れたように見て、また望美は笑い出した。




「先輩」

「ご、ごめん。でも、やっぱり譲くん、おかしいよ〜!」

「おかし……、ひどい言い方しないでください」

「だって〜!!」

ケラケラと笑い続ける。

「もう〜〜、どうしてその性格、あっちでは隠せたの?」

「隠……」

また涙を浮かべて笑い続ける望美を見ながら、譲は溜息をついた。

(俺は別に隠していませんよ、あなた以外には)




「さあ、先輩、休み時間終わっちゃいますよ。とにかく兄さんには断ってください」

腕を取って立ち上がらせながら、譲が言う。

「え〜!? 食べたいよ、新メニュー」

「食べたいものなら俺が何でも作ります」

「ほんと?!」

「だから兄さんの店はパス。いいですね」

「…は〜い」

しょんぼりした望美を見ると胸が痛む。

「……木曜日なら、部が早く終わるからつきあいますよ」

「うんっ!!」

100ワットの笑顔がすぐに戻った。




(…まったく、どっちが「ガキ」なんだか…)

と思いつつ、やっぱり望美の笑顔が見たくて言うことを聞いてしまう。

(俺、向こうにいるときと何も変わっていませんよ。ついでに言うなら、向こうに行く前とも変わってません、多分)

自分の感情を望美にぶつけられることになったのは大きな変化なのだが、プロセスがあまりに自然だったので、譲に自覚はなかった。




「譲くん、私、久々にはちみつプリンが食べたいな。京の幻の名菓!」

「え? 結局俺、作るんですか?」

「白龍が大好きだったよね〜」

「…ちょっと食わせすぎましたけどね」

「?」




京での月日が嘘のように、16歳と17歳は年相応の会話を交わしながら教室へと戻って行った。

窓の外では、鮮やかな新緑をまとった桜がさやさやと揺れている。

すぐそこまで、初夏が近づきつつあった。







 

 
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